愛 求める

盲目の蝶は愛をかく語りき

そんな事をするのは止してと呟くの腕を引き、酷く怯えた彼女の身体を抱き締めた。 この界隈だけでなく、一つの海を跨ぐほど 知られている彼女に手を出すという事は兎角、人目を引くという事だ。 映画産業を主とするこの開けた街で彼女は最も集客のある女優として人気を集めていた。 エースも他と変わらず、彼女主演の映画を目にした一人だ。 あの古ぼけた映画館。未だ飲酒も喫煙も出来、主な上映はブルーフィルムのはずなのに。 片手で足りるような集客のそこでエースはを目の当たりにした。 エースの右後ろでは若いカップルがそれこそ致しており、その遥か後方には行為を見つめる輩が鎮座する。 その時上映されていたのはの出世作とも呼ばれる作品で、 スクリーンの中の彼女は一人の男を愛し、そうして戦火に飲まれていた。 この世の中にここまで美しい女が存在するのかと思い、もうそれからは盲目だ。 彼女の姿を捜した。彼女は有名な映画の街にいた。 例の如く勝手に侵入したエースは撮影所からをつけ、最終的に彼女の豪邸へ入り込む。 は二匹の大きな犬と一緒に暮らしていた。最初に声をかけた時の彼女の驚きようだ。 悲鳴を上げる事も出来ず、只こちらを見つめていた。 勝手に侵入して悪ぃが、そんなに怪しいモンじゃあねェぜ。 エースのそんな言い分を真に受ける道理もない。あの美しい眼差しが尖りこちらを見据えている。 まるで映画のワンシーンのようだと思った。人事のように。 意を決したはベッドへ駆け、クッションの下からデリンジャーを取り出す。 どうしてそんなものを持っているのかと、まずは最初の疑問だ。 白く長い腕がこちらに銃口を向ける。そんなの隣には寝具。何て出来すぎたステージだ。 近づかないでときつい口調で叫ぶに一歩、一歩と近づき距離を縮めた。 撃つか、撃たないか。人を殺した事がある匂いがしていたのだ。からは。 一発、弾丸を放ったの腕を掴み身体ごとベッドに倒れこむ。 近くで見ても美しさはやはり変わらず、むしろ際立ったのだから仕方がない。 じたばたと暴れるを組み伏せ見下ろした。

「あんた、何なの」
「俺の名はエース、あんたのファンだ」
「どうやって入ったの」

ここのセキュリティは万全のはずよ。掴んだの腕は酷く震えていた。 指先にそっと口付ける。じっと目を見つめたままだ。 長い睫が小刻みに震え薄く開いた唇は赤く、まるで誘っているのかと思い違えた。まあ、思い違えだろう。

「こんな事して、どうなるか分かってるの」
「どうなるんだい」
「あんた、殺されるわよ」
「そりゃあ、あんたにかい」

首筋に唇を落としきつく吸い付く。 こんな状態になりながら泣きもせず声も上げないは普通ではない。普通の女ではない。 肝が据わっているという事は、それなりの経験があるという事だ。 この美しい顔の下に一体、何を潜ませてやがる。 敵う道理がないと知るのも早すぎるし、諦めるのも早すぎる。 第一印象なんて大してあてにならず、きっと彼女は自分が思っているような人間ではないのだろう。 少なくとも、大人しく涙を流すような女ではないはずだ。

「キレイな女だ、あんたは」
「…」

どういう意味かも問わないは人形のように四肢をダラリと伸ばしたまま、 エースではなく只、天井を見つめていた。 そんな始まりだったのに、どうして続ける事が出来たのかといえば、 一つはエースの執着、もう一つはタイミングが理由となる。 それからエースはほぼ毎日のように顔を見せるようになった。 まるで何一つ悪い事はしていないと言わんばかりにだ。平然と顔を出し、 まるで昔からの知り合いのように声をかける。は(当然といえば当然だが)ずっと無視を続け、 時には警備員にエースをつまみ出させたが、執拗にあの男は戻ってくるものだから、 諦めの境地に入りかけていた。勝手に家宅侵入し、 暴力的ではなかったが無理やりに行為を強要された相手だ。 まあ、それでも怯える事無く振舞える自身に問題はあるのだろうと分かってはいた。 あんな事は日常茶飯事で、特に驚くような事でもなかったからだ。 あの部分に関しては完全に心が死んでいる。映画の撮影に影響はなかった。 だって、心は死んでいるから。そんな日々がどれくらい続いた辺りだろうか。 あの日以来、エースは直接的な干渉は求めていなかった。 お前の周囲をうろついてるあのガキは何だ。 何れくると思っていた質問に答える事が出来なかったは手ひどく打たれ、 無理やりに関係を求められた。死んだ心も時には疼く。まったく何をしているんだと心は嘆く。 この絡まった糸はこれまでも、これから先もを離すつもりがないらしい。 草臥れたを待っていたのは相変わらずなエースで、彼はの変化に気づいていたのだろうか。 どうしたんだと聞く事は出来ず、触れる事も出来ない繊細さを垣間見せる。

「がっかりしたでしょう、あんたも」
「…いや」
「こんなもんよ」

あたしなんて。この街にいる女なんて。無造作にジャケットを投げ捨て、冷蔵庫を開ける。 嫌な思いを忘れる為に選ばれる手段がアルコールなんていうのもよくある話で、 そんな女を目の当たりにしたエースが愛想を尽かしても仕方がない。 こんな醜い部分を隠す気力もないのだ。どれだけもてはやされたとしても何一つ変わりはしない。 あの男の使い勝手のいいコマで終わる。顔だけはキレイだと、それだけを生かす理由にしたあの男の。 どんなに演じても同じだ。どの道、撮影が終わればフィルムはフィルムのままに、 だけが現実に引き戻される。度数の強い酒を一気に煽れば足元が崩れ、 グラスごと残りのアルコールも床に砕け散る。エースが身を支えた。 背後から、まるで抱き締めるように。

「エース、あなた殺されてしまうわ」
「お前の為にか?そりゃ嬉しいね」

砕け散ったグラスの破片に映ったエースの顔は歪んでいる。 この男の命を掴んでいるのは自分だというのに、 危険さえ知りながらもたれかかっている己に嫌気がさし、少しだけ泣いた。


2010/1/1(このエースは目的を見失っている)
模倣坂心中