真っ暗な海で空を仰ぐ

  息を潜め凍てつくような寒さをやり過ごしていた時だ。キロランケの野郎は野暮用がどうだとよく分からない理由で不在、白石とアシリパは背後にひっそりと佇む廃墟で眠っている。パキリ。枯れ枝を踏む音が聞こえ銃口を向けた。

「出て来い」
「…」
「妙な真似はするなよ」

パチパチと燃え上がる焚火の中で竹が弾けた。暗闇の中から姿を表したのは白いスカーフで顔を隠した女だった。薄い緑色の美しい目をしていた。手足の長さから見るにロシア人なのだろう。顔のそれを取れ、そう言った理由は単なる興味だ。

黄金の如く光り輝く髪と血の気の失われた白い肌。赤い唇は薄い。これだけ凍てつく環境下でも一切震えていないのは慣れているのか、それとも見るからに軍服といった様相の服装の仕業なのか。

明らかにそうではあるのだが、どうにも見覚えのない軍服だ。こちらを捕まえに来たのかと思ったが、どうやら違うらしい。



「お前、何者だ」
「ここに、ユルバルスがいるでしょう」
「ユル…?」
「今はキロランケと名乗っているわ」



図らずしもここで男の隠し事を知る。互いに真実を語らぬ者同士だ。ああ、ユルバルスの知り合いか。初めて口にする名を呟き、じきに戻るぜと告げる。だったら待たせてもらうわと、見知らぬ女は遠慮もなしに腰を下ろした。





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革命運動がにわかに薄く燃え盛りだした頃に命を受けた。両親は貧しい農夫で、産まれたばかりのを僅かな銅貨と引き換えに売り渡した。両親には他に9人もの子がいた。は望まれぬ子どもだった。

帝国は改革を推し進める傍ら、農民たちの反対運動を危惧し秘密裏にある組織を作った。幼い子供を集め、英才教育を施し、国の為に生きる兵器として育てる。成長の過程で幾人もの子供たちが命を落とした。訓練は極めて過酷だった。

両親のいない子供たちに逃げる場所はなく、凍てついた大地は余りにも凄惨だ。生き抜く事が出来ない。どんな目に遭ってもそこにしがみ付く事こそが生きる術だと思えた。テストの成績がよければ大人達の機嫌はよかった。

の最初の仕事は『人民主義者』のアジトを探る事だった。その時代、皇帝と地主の権力は農民一揆で打倒出来ると信じた人々は悉く弾圧され、テロリズムが横行していた。その組織の中枢に入り込み、内部から崩壊させろというのが命令だった。

若かりし獅子に出会ったのはその時だ。人々を率いたユルバルスは若く、勇ましい。彼は体制に対する明確な意思を持つに興味を抱いた。当然の結果だ。そう思わせるように仕向けた。この男を陥落し、組織ごと崩壊させようと考えた。まさか、自らが恋に落ちるとも知らずに―――――

同じ志を抱く者として、だなんて体裁だ。寝具の中では単なる男と女であり、幾度も同衾を重ねた。あの夜、あの忌まわしい思い出の夜。恐らくユルバルスは最初からそのつもりだったのだろう。最初から、こちらを切り捨てるつもりだった。正体がばれただとか、そういう話ではない。最初から彼は心など置いて行くつもりだったのだ。

感傷など、革命の妨げにしかならない。愛していると呟いた刹那、向けられた銃口。咄嗟に逃げ出そうと身を捩ったの左肩辺りを貫き、その衝撃のまま昏倒した。至近距離にある男の目は僅かな温もりさえも寄越さず、振り返りもせずに姿を消した。

定期報告の時間になっても連絡を寄越さないに痺れを切らした他の隊員が(は知らなかったのだが、若い彼女は信頼に値せず、組織は秘密裏に他の隊員を組織に潜入させていた。

彼女の不義は組織に筒抜けだったわけだ)部屋を訪れ事件が発覚。そのまま回収される。その後すぐに再度『教育』を施されるも心を壊し破棄、捨てられた。



「…そう、いかれてるようには見えないがね」
「どうかしら」



いかれてるかどうかは分からないのだけれど。
は続ける。

ユルバルスに出会ってからの私は只の女で、彼に撃ち抜かれてからの私はより一層、只の女に成り下がった。私の心はユルバルスに奪われ、取り返すまでは正気に戻れない。心は確かに壊されたのよ。だけれどそれは組織に、じゃあない。彼に。



「ユルバルスに壊されたの」



真顔でそう言う目前の女は確かにいかれている。完全にどうにかしていやがる。母親を思い出し腹の底から嫌悪した。いや、だけれど。あの女もここまで突き抜けていれば死ぬ事もなかったのか。



「…で、どうするんだ」
「心を返して貰うわ」
「そんなもの、もう持ち合わせてないかも知れないぜ」



そう言われた瞬間のの顔。歪んだ笑みが心底ゾッとさせる。ああ、大丈夫だ。こいつは十二分にいかれてやがる。心なんてとっくに失い、戻しようもない。だから―――――

の背後、まるで亡霊を見るかのような眼差しで立ち尽くすキロランケがいる。この様子を見れば、女の話は満更嘘でもなかったらしい。



「あんたにお客だぜ」
「…!」
「…



だったら尚更だ。尚更面白い。どうなるのか、最後まで俺を楽しませてくれよ。