仮に勇敢と呼ぶ

  の事はそれこそ昔から知っていた。
彼女の家は伊之助の住む家から歩いて二分程度の距離にあって、近所でも有名なデカい屋敷だった。まるで物語に出てきそうな、とでもいうのか、とりあえず敷地は赤レンガで出来た壁に囲まれており、華美な細工が施された門を抜けると庭師が手入れを欠かさない庭園が広がる。その奥に佇む古びた洋館が の住む屋敷で、幼い伊之助はよく忍び込んでは庭になっている果物を頂戴していた。
最初の頃こそつまみ出されていた伊之助だったが(それこそ最初は獣が庭園内を荒らしていると罠を仕掛けられる始末だった)とある日、出窓から外を眺めていた と鉢合わせ全てが変わった。
屋敷の一人娘である の友人として丁重な扱いを受ける様になり(それでも伊之助は頑なに裏庭にある抜け道から出入りをしていたのだが)事あるごとに顔を見せる様になった。
伊之助の方は肉親と呼べるのは自身を引き取ってくれた老婆しかいない。じきに伊之助も を連れ、互いの家を行き来するようになった。

「…よぉ」
「伊之助」
「何やってんの」
「…」

そんな彼女との別れは随分と早く訪れた。産まれの差というやつだ。病弱な彼女は幼稚舎をずっと休んでいたらしい。伊之助と遊ぶ内に体力のついた は小学校に上がると同時に元の生活へと戻る事となった。当然、伊之助は公立の学校へ進む。
二人の生活は分かり易く別れるが、最初の頃は週末に遊んだりもしていた。だけれど徐々に亀裂は深まる。どちらかといえば伊之助側からだ。小学生男子は一日中遊び回る。人並み以上に体力のあった伊之助はあちらこちらと遊び回り、中学年に差し掛かる頃には運動クラブにも参加した。 と会う時間はどんどんと減り、中学校に上がった辺りには、たまに顔を合わせる程度になった。

「お前、今どこに住んでんの」
「…」

だから、だなんて言えない。どんな言い訳も恐らく響かない。 の屋敷が売りに出されている事を知ったのは一年程前の事だ。門に大きく『FOR SALE』と書かれた看板が貼りだされたのだ。辺りにはすぐに人だかりが出来、皆、口々に心無い噂を囁き合った。
飯を食う時くらいにしか家に寄り付かなかった伊之助がその事を知ったのは、看板が貼りだされて五日後の事で(伊之助は『FOR SALE』が読めなかった)そのまま屋敷へ駆け出したのだけれど、とっくにそこは空家となり誰もいなかったわけだ。
LINEは既読にならないし、携帯の番号はとっくに変わっていた。その日から の足取りを探す毎日が始まった。とはいえ、手掛かりはまるでない。とりあえず手当たり次第に聞きまくっていれば、学内で謝花の兄貴に声をかけられた。

『お前、 を捜してんだろ。何で』
『会いてーからだけど』
『ふーん』

元々感情の読めない男だが、更に読めない。だけれど彼は一枚のカードを伊之助に渡した。ここにいると思うぜ。隣でずっとスマホを弄っていた梅がやたらと印象的だった。

「なんで伊之助がここにいるの」
「捜してたんだよ、お前を」
「どうして」
「何か、いきなりいなくなるから」

嘘だ。本当は知っていた。噂は随分前から耳にしていた。

「あれぇ?どうしたの?
「…」
「お友達かな?」

謝花の兄から渡されたカードはとあるクラブのもので、その日から放課後はそのクラブに入り浸る事となった。先に謝花の兄から話がいっていたのかも知れない。通常であれば必要なはずの入場料はかからなかった。そればかりか只で飲み食いも出来る。良い所だな、と思っていればこれだ。そんなわけがない。そんな道理はどこにもない。
の父親は他に家庭を持っていたらしい。資産家には侭ある出来事だ。問題は一人屋敷に残された母親だ。彼女は思い通りにならない人生に、家に寄り付かない夫に、呪いをかけた。それは幼い娘に向かい、宗教という形で放出した。
とある新興宗教にハマった母親は救いを求めたのだろう。財産を散々と使い込み家庭は崩壊。父親はもう一つの家庭を真の家族とみなし、これまで住んでいた屋敷をあっさりと売り払い姿を消した。こうなる事は分かっていた。
既に三年に渡り の母親は昼夜関係なしに何かしらの文言を唱えていたし、不特定多数の宗教関係者が入り浸っていた。善良な祖母は言葉少なにずっと心配していたのではなかったか。救う術はないと知りながら。
の隣にいるのは、彼女の母親がご執心の新興宗教の若い指導者だ。名を童磨と言い、このクラブのVIPルームにいる事が多い。らしい。

「君が随分と美しい顔をしているから、思わず無料にしてしまったよ」
「!」
「目に見える美しさってのは何ものにも代えられない財産だ」

俺は美しいものが好きだからね。男の目は七色に輝き確かに吸い込まれそうだ。ゆっくりしていくがいい、俺は先に戻ってるよ。男はそう言い姿を消した。残された伊之助と は所在無さげにその場に立ち尽くす。完全に牽制された状態だ。

「…お前、あいつと一緒にいんの?」
「そうだけど」
「は?何で」
「…」
「お前、あいつの事す」
「やめてよ!」

そんなんじゃないと否定する からは酷く性的な匂いがしていて、そうじゃないも何も、お前はあいつとやってんじゃねーか、だなんて身も蓋もない思いしか生まれて来ない。お嬢さんだと呼ばれていた頃の面影はとっくに消え失せ、 の横顔は余りにも醒めている。
あの母親がどうなったかは知る由もないが、噂によれば教団に身も心も捧げているらしい。その娘である がどうなのかは、聞かなくても分かる。お前、あんな男と懇ろにならなきゃいけない程、追い詰められてんのかよ。それとも本気で?

「…だったら、うちに来いよ」
「…」
「お前さえよけりゃ」

今にも泣きだしそうな は、小さな声で出来ない、そう呟いた。どうして。伊之助の問いかけに答える事もない。捕らえた手はあっさりと逃げ出し、 もVIPルームに消えていった。一人取り残された伊之助は―――――

「声がでけーよお前は」
「謝花…」
「でけー声で『好きなのかよ!』じゃねーのよ」

VIPルームに向かい、お前が返事をするまで入り浸るからなと一人悪態を吐く伊之助を見下ろし、青臭ェな。そう言い後頭部を張り倒した。