残酷に我儘に際限なく私を愛す

   今日は俺に時間頂戴よ、なんて調子のいい事を言う趙のLINEを既読無視していたこちらが悪いのだろう。

正直な所、あの男が異人町から出て来る事はないだろうと思っていたし(こちらはみなとみらいが職場だ)二日後くらいに最近忙しくて、だなんて嘘丸出しの返事を返しておけばいいかと高を括っていたのだ。

珍しく定時で終わった週末の仕事帰り、どこかに寄って帰ろうかな、と思いビルを出た瞬間に横付けされた車。黒いゲレンデの窓が開きあの軽薄な声がこちらの名を呼んだ。

ちゃぁん、迎えに来たよぉ。

正直な話、走って逃げだしてもよかったのだけれど、そんな事は気にもせずに付けて来そうだし、何より周りの目が気になり過ぎる。そういえばエレベーターが締まる寸前、営業チームが飲みに行こうぜ、だなんて騒いでいた気がする。そいつらに見つかる前に助手席に乗り込んだ。

ちょっと、何?何なの?
そう言えば返事くれないからさぁ、悪びれなくそう言う。


「異人町から出て来るなんて珍しいじゃない」
「まぁねぇ」
「横浜流氓の総帥が遊び歩いてていいの」
「人目に触れたくないのよねぇ」
「ヤダ、殺されんじゃないの、私」
「かもねぇ」


この男と知り合ったのはもう随分昔の事で、それこそ子供の頃だ。伊勢佐木異人町。あの全てを受け入れる掃き溜めの町。はそこで生まれた。何か特別な理由があったわけでもなく、単純に昔からその界隈に暮らしている両親の元に生まれ落ちた。

両親共に生まれも育ちも異人町だったが、父親は大きな企業に勤めていたし、母親は看護師と助産師の資格を持っていた。


「で、どこ行くの」
「俺、あんま外に出る事ないからさぁ」
「?」
「ドライブにでも行きますか」
「嫌なんだけど」
「だめー」


両親は地元に根付いた人種だった。故に父親は職場を地元以外の場所に求めたのだろう。仕事から戻れば地元を愛する、異人町によくいる男になった。母親はを産むまでは看護師として働いていた。大きな病院の産科にいたらしい。

この趙との縁も母親からだ。彼女は助産師の腕を買われ、度々横浜流氓やコミジュルから依頼を受けていた、らしい。異人町という極めて異質なコミニュティの中では通常受けられる医療行為を受けられない人々が一定数存在する。彼女はそのあぶれる人々の受け皿として働くNPO法人に所属していた。


「やっぱキレイだよねぇ、横浜はさぁ」
「夜景は売りだからねー」


趙を取り上げたのはの母親だ。彼の母親は趙が初産であり、そのお産は困難を極めた。無事に産声を上げた時、彼の父親である前頭領を初め横浜流氓の民全員が歓喜の声に包まれた。趙との仲はそれからだ。

彼はのように幼稚園に通う事はなかった。彼らにはその権利がなかったし、彼らのコミニュティの中に学ぶ術も組み込まれていた。幼稚園から帰ったは何の疑問も持たず中華街へ向かい、裏路地から彼らの陣地に潜り込んだ。趙が待っている事を知っていたからだ。

だから横浜流氓のメンバーも口を挟まず(とはいえ年端もいかない子供相手だ)は歓迎されていたと思う。

趙は金を積めば入学する事が出来る所謂私立の小学校へ進んだ。彼は聡明な子供だったから、すぐに頭角を現した。中学に上がる頃にはその名を知らぬ者はいない、という存在になっていた。二人の距離感は変わらず、あの頃から今になっても一つも変わらない。

高校、大学と決して相容れる事はなく、社会人になった今もだ。彼は横浜流氓の頭領となり、は総合職のOLとしてそれなりの企業に勤めている。


「スピード上げちゃーう」
「え」
「こんなんもう、俺と風になるしかないっしょ」
「嫌なんだけど」


片手でハンドルを握る趙の姿は控え目に言っても格好良く、高校時代に中華街を我が物顔で練り歩いていた彼の姿を思い出す。趙の周囲には沢山の人がいて、近隣の高校で名の知れた派手な女の子も集まっていた。

そんな姿を目にし、何となく声をかけ辛くなり(趙は趙で屈託なく話しかけてきてはいたのだけれど)そうこうしている内ににも彼氏が出来たりと、それまでも当たり前が変わり始めた時期があった。互いの生きる世界が違う事を知るいい機会だったのだと、こちらは思っていたのだが―――――


「でぇ、はさぁ」
「何」
「あの例の彼とはどうなったの?」
「…」
「あ~」
「何よ」
「別にぃ」


ちゃんとした理由さえ告げず男が逃げてゆく。つい数時間前まで熱を交わしていたはずの相手であっても同じだ。最初は自分が悪いのかと自己嫌悪に陥り、二度目は男に腹を立てた。三度目ともなれば馴れが生じており、その頃くらいから薄々気づいてはいたのだ。だけれどそのままにした。何故かは―――――


「…私、知ってるのよ」
「!」
「だけど言ってあげない」


別に今更な話だ。趙の周囲にいる彼女達に妬き、別にこちらはこちらで、私の世界で生きて行くから、だなんて無駄な意地を張った。生きる世界が違うのだと割り切り、与えられた中で幸せに暮らすのだ。それを趙がどう思うのかは賭けだった。

こちらの思い通りにならなかったとしても、それはそれで私の人生だ。一生片思いをして生きて行くだけ。だから、趙が何らかのリアクションを見せたのだと知った時は嬉しかった。

彼はに彼氏が出来る度に、彼なりの『挨拶』を行っていた。別に一切暴力的ではなく、酷く紳士的に。にだけ伝えずに。


「怖えー」
「どうするの、趙」
「えぇ?とりあえずさぁ」


天佑って呼んでよ、昔みたいに。話はそれからかな。


こうしていつも肝心な所ではぐらかす。確信を突けない二人がここにいて、横浜の町を流れてゆくだけなのだ。