影が差したらお眠りなさい

   幼き頃の話だ。物心がつきすぐ、確かその位の出来事と認識している。既にその頃からリリアは側におり、複数いる乳母や使用人達を取りまとめていた。幼子は好奇心が旺盛だ。広大な敷地内を日々飽きる事なくふらふらと歩き回るマレウスを捜し回るのが大人達の日課となっていた。

母屋となっている屋敷も広いが、東に聳える塔や西に構える吊り橋(その先は鬱蒼と茂る深い森になる)それに母屋を取り換え込む広大な庭園。子供が身を隠すには十二分な環境だった。

そんな中でもマレウスの気を惹いたのは北に群れる古い廃墟だった。危ないので絶対に近づいてはならないとリリアからは事あるごとに煩く言われていたのだが、そう言われれば興味芯は増す。子供は基本的にいう事を聞かない。賢しい子供であれば尚更だ。度々、その廃墟へ足を踏み入れていた。

廃墟の中はところどころ壁が崩れ床は抜け、確かに危険な状態ではあった。幼いながらも懸命なマレウスは慎重に歩みを進め廃墟内を探索した。

『それ』が聞こえ始めたのは何時頃だったか。廃墟内を探索し出し二度目の満月を迎えた辺りか。どこからか奏でるような声が聞こえるようになった。最初は余りに小さく、囁き程度の声ではっきりと聞き取れなかったが、三日目の晩に聞き取る事が出来た。



『私をここから出して』



声はマレウスにそう告げていた。私とは誰だ。そうしてここから出して、とは。声は四六時中、場所を選ばずに聞こえた。周りを観察したところ、自分以外の者には聞こえていないらしい。賢明なマレウスはとりあえず声の主を探す事にした。

当初は助けを求めるだけだった声は、徐々にマレウスを誘うようになった。声は北の廃墟に近づく程大きくなった。探し始めて十日目のある日だ。マレウスはようやく辿り着いた。

声の主は廃墟の奥、これだけ朽ちている建屋の中、不自然なほどに光り輝く小さな扉の向こうにいた。どうやら朽ちぬよう強い魔法がかけられていたらしい。どうしたものかと考えあぐねていれば、声の主は囁く。



『あなたであれば触れるだけで私を助ける事が出来るわ』



言われるがままに腕を伸ばした。記憶はそこで一旦、途切れている。気づいた時にはリリアに抱かれていたのだし扉は急速に朽ちていた。きつく叱られるかと思ったが、リリアは一切言及しなかった。不自然な程にだ。声は、その日を境に聞こえなくなっていた。









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翌年にNRCへの入学を控え暇を持て余していたマレウスは、リリア達の目を盗み人の町へ足を運んでいた。人々はマレウスを畏れる。否、人でなくとも恐れる。それでも人の暮らしぶりを眺めるのは好きだった。

フードを被り夜の町を彷徨う。昼間の間には人々で賑わっていた市場は閑散としており、代わりの様に盛り場に明かりが灯る。少し離れた場所でその光景を眺めていたマレウスに近づく者がいた。女だ。それも酷く美しい。どうやら人ではないようだ。匂いが違う。



「…あんた、そんな所で何をしているの」
「気にするな」
「…!」



女はマレウスの顔を覗き込み、一瞬だけハッとした表情を浮かべた。

この男は。

数秒の間、色んな感情が目まぐるしく駆け巡る。その昔―――――男を誑かすという咎で罰を下されしニンフがいた。意思を持たずとも、相手が勝手に身を持ち崩す。防ぎようのないものだ。近づくだけでそうなる。だからこれは神が齎した力であり、何が咎であるものかと思っていた。

人と妖精のハーフであるは疎まれるべき存在として隔離された。ニンフォマニアの気が強い為という理由でだ。それはもう長い、長い間、一人ぼっちで閉じ込められた。お前が存在するだけで国が亡ぶのだと、男は告げた。



「だったら、こっちにおいでよ」
「…」
「遊ぼう」



楽しいよと囁く女の声が耳でなく脳に響く。不思議な感覚だ。だけれど初めてではない。僕はこの感覚を知っている―――――女の指がマレウスの手を取った。引かれるがままに身を委ねる。その晩、初めて女と同衾した。

何も考えないでと囁く女の声は酷く心地よい。脳を痺れさせる不思議な力がある。行為自体はそういうものかと思え、それよりも直に触れる肉の温もりには離れ難い魅力があった。触れる先から伝わる温度。確かにそこに生きているという証。朝方に身支度を終えたマレウスは又、来ていいかと呟く。女はいいも悪いも告げず、薄く笑った。

それは所謂『出来心』というやつだ。閉じ込められた憎しみ、助けられた喜び。感情は交錯した。一度だけ。たった一度だけだ。その日以降、夜半過ぎになるとマレウスは訪れた。が盛り場で夜更けまで飲み明かし帰って来た明け方にさえもまんじりともせずそこにいた。咎めるでもなく、只、そこでを待っていた。

正直な所、途中から気づいていた。これはマズい。よくない状況だ。たった一度だけの甘い感傷がこんなにも厄介な状況を作り出した。こんな逢瀬を繰り返していれば、必ず奴らの目につく。囚われるのは二度と御免だ。この町を出なければならない。この男に知られる前に。愛だの恋しいだの、そんな言葉をかけてくるような男ではない。恐らくこの男はそういった情緒に疎い。だから衝動で動いている。この感情が果たして何なのか知りもせずに。

又、明日来ると告げ姿を消すマレウスを見送り、すぐに身支度を整えた。男の損失感に気づきもせずに。明け方になるとこの一帯は霧に包まれる。それに乗じ逃げ出そうと目論んだ矢先だ。霧の中から声が聞こえた。



「思惑が外れたようじゃのう、



過去、この身を封じた声は忘れない。辺りは霧に包まれ方向感覚さえ失った。霧の中にぼんやりと浮かぶ黒い影が木々なのかリリアなのかも分からない。



「リリア…お前に奪われた自由、取り戻させてもらう」
「それは叶わぬ願いじゃ」



のうマレウス。
リリアの声と同時に、霧の中から現れたマレウスの目は轟轟と燃えている。あの色は知っている。あれは執着だ。執着の炎だ。我々が最も畏怖する。



「おや……ずいぶん華やかな集まりだ」
「マレウス―――――」
「招待されなくてがっかりだよ。
「好きにせい、マレウス。お前の気のすむようにな」



黄緑色に燃え上がる炎を見つめ、逃れられないのだと知る。お前を閉じ込めてしまおう。そうしてしまえば二度と逃げ出さないだろう。そう笑い腕を伸ばすマレウスからどうにか逃げ出し鬱蒼と茂る森の中へ逃げ込むも、そこは茨の群生地。鬼ごっこは得意だと囁くマレウスの声は、すぐ耳側で聞こえていた。