赦してくれ、夜が明ける前に

   助けたはずの兄は家族を捨て鬼狩りの世界に身を投じた。兄を助けるべきだったはずが、結果助けられていないのではないか。そのジレンマは常に付きまとっていた。

継國の家を継ぎ子を為し家督を守る事こそが務めであったはずなのに、彼はそれよりも剣技を、力を選んだ。その選択が正しかったのか否かは、最早誰にも分かるまい。

巌勝―――――兄は鬼となった。私と会い、鬼になった。自らの意思で。あの時、命を救わねば鬼となる事はなかっただろう。私は、果たして何を救ったのか分からずにいた。

兄がまだ人として鬼狩りを続けていた頃、彼は一度として残された家族の話をする事はなかった。縁壱もあえて口にした事はなかったが察するに余りあった。家督を継ぐべき者に世継ぎがないとは考えにくい。

継国家の近況を探る為、幾度か町へ出向いた。主のいなくなった家は没落の一途を辿る。幼子に家督を相続させ、後見役として家に残ったようだ。尼寺に入る事はなかったらしい。幼子を手放したくないという母心なのだろうか。女の顔は亡き母によく似ていた。

女の名はといい、継国家と古くから縁のある武家の娘だった。巌勝は戦で死んだという事になっており、そんな中、気丈に振る舞うを影ながら見守る。後妻を狙う不埒な輩や危機から守る。それでも財政は徐々に厳しくなっていったのだろう。配下は一人減り、二人減り。古くから仕える数人のみになった。

直接手渡すわけにもいかず、子に食べ物や銭を渡していた。最初、驚いていた子供もじきに懐いた。子は父親の顔を知らないようだった。

そんな暮らしが続いたある日の事だ。幾度聞けども決して口を割らない息子に根負けしたは、それでも子が誰から食べ物や銭を貰っているのかを知りたく、こっそりと跡を付けた。子は裏山の麓へ駆け寄る。辺りをきょろきょろと見回し、一言、二言。何がしかを口にしたようだ。

その刹那、姿を見せた男の姿。息を飲んだ。あれは、まるで。巌勝様ではないか。思わず駆け寄り幾度も名を叫んだ。巌勝様、巌勝様。そう言い触れるも顔の痣に気づく。



「私は…兄上ではない」
「兄…」
「無粋な真似をしてすまない」



二度と顔は見せないと告げる男の手を取り、後生だから話を聞かせてくれと縋る。男の手は太く逞しく、巌勝を思い出させた。









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屋敷は酷く閑散としており、幼き頃のそれとはまるで違えていた。この時間になれば我々以外には誰もおりませんとは言う。子供たちは二人とも厳勝の顔を知らない。物心つく前に行方を晦ましたからだ。それに、この頃には鬼となっていた。

どこまでを伝えるべきか迷ったが、とりあえず双子であるという事と、幼い頃に自身は寺へ預けられた、という仮の話を伝えた。

兄が死んだ事を知り、勝手ながら不躾な真似をしてしまった事。そもそもこちらは離縁された身である事。もう顔を出すつもりはない事を矢継ぎ早に伝える。は深々と頭を垂れた。

そのまま食事と風呂の世話をされ、寝床まで提供された。夜も更けて参りました。御迷惑でなければ一晩。そう促され断る術もない。

数十年振りの生家はまるで他人の家のようで気が休まらず、寝床の中でまんじりとしていればだ。つ、と襖が開きが入って来た。



「…如何された」
「後生です」
殿」
「後生です、縁壱様」



襦袢の女は月夜に照らされ透けるようだ。同じ顔を見て錯乱でもしたのかと思うも、女はこちらの名を呼んでいる。止さないかと制すも女の目が余りにも感情的で息を飲んだ。これは、まさか、



「私はあなたを憎んでいるのでしょう」
「何故」
「厳勝様のお胸に巣食うあなたという存在に、気が狂わんばかりでした」
「…知っていたのか」
「―――――あの人は」



あなたを選んだのでしょう。唇を噛み、呟く。



「止せ、私は」



失ったものを取り戻せるとは思わない。そんな真似は到底無意味で、あり得ない。失った子、失った家族。この手からは全て零れ落ちゆく。最初は母親、次に妻、そして子。愛したものは悉くだ。そうして兄、巌勝―――――

ですから私はあなたを奪うのですと、気の触れた女は白い顔をしそう嘯く。あの人を奪ったあなたを、あの人から奪うのです。女の肌はぼんやりと浮かぶ月と同化した。それなのに、兄上は私の事を忘れてはいなかったのだと、只それだけの感傷が心を浸す。