紡がれた糸の行方は

   名の知れた剣士だった事を覚えている。昔の記憶だ。確か他に跡取りのいない家で、年老いた父親は若い妾に次々と子を産ませた。

側室の座を狙う妾達はこぞって子を生んだが、本妻の嫉妬は相当なもので、目を離した好きに次々と毒殺を企てた。そんな劣悪な環境の中、唯一生き延びたのがだった。

父は娘の性別を隠した。恵まれた体躯がそれを可能にした。幼い頃から延々と剣技を磨く日々だった。人生の愉しみなど何一つ知らず、只、言われるがままに刀を振った。

戦国の世から太平の時代に入り、生活は変わった。地方大名として生きて行く事になり、秘密は更に増えた。次は私が子を為し家を継がねばならない。重圧は増した。

確かあれは酷い通り雨に襲われ、目についた屋敷に飛び込んだ時の事だ。戦火後のこの付近は主を失った屋敷が多い。人気のなくなった家屋はすぐに痛む。すぐに止むだろうと高を括っていたが、雨が勢いを増し一晩をそこで過ごす事となった。

屋敷の中に一歩、足を踏み入れた時から気配は感じていた。視線もだ。何か、何かがいる。恐らくよくないであろう何かが。通常であれば雨が降ろうが槍が降ろうがさっさと立ち去っている。だけれど今はそんな気分になれない。

家督を絶えさせたくない父親は嫁を娶れと迫っていた。娶るも何も、私は女だと言えども話は通じず、ああ、これはいよいよなのだと思えた。父は既に耄碌した。私も、同等だ。

生きて行く事に何の意味も見いだせないのだと気づいた。この身は、この人生は果たして何だったのか。雨音は激しく地面を叩き続ける。



『…女か』
『何奴!』
『ほう』



刀を振るうか。

声の方を見た。記憶はそこで途切れる。次に思い出せるのは肩で息をする己の姿で、深々と裂かれた腹からは臓物が覗いていた。

男には六つの目があり、それを見た瞬間に恐れが産まれた。息を飲んだ。人でない。そう思うに余りある容姿だ。反射的に刀を構えたに対し、それは一太刀で距離を詰めた。そうして何事かを呟きこちらへ投げかけた。大量の血液を一気に失ったこの身体では最早、聞き取る事は不可能に近かった。









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男は黒死牟といった。その名を知ったのは人でなくなった後の事で、あの屋敷で目覚めた。床にはおびただしい量の血液が染み込んでおり、それは自身の身体から吐き出されたものだという事に気づきぞっとした。何故こんな量の血液を失い生きている。

数日はこのままだったのだろう。雨はすっかりと上がり日が射していた。兎も角屋敷へ戻らねばと立ち上がった。それでも何故か外に出る気になれない。これまで感じた事のない恐怖心だ。立ち往生をしていれば、屋敷の奥から声が聞こえた。



『目覚めたか』
『お前は』
『お前は相応しいという事だ』



男は名を告げ、陽の下に出るなと続けた。あれはダメだ。あれだけには敵わぬ。得体の知れぬ恐怖心は太陽光に対してだったのだ。

夜が来るまで長い、お前の話を聞かせろと男は言う。そう、最早人でない。人ではなくなったのだ。だから、産まれて初めて自分の話を口にした。私は自身の名を忘れてはいなかった。



「雨、止まないわね」
「そうだな」
「本当、気が滅入る」
「お前と初めて会ったのもこんな日だったな」
「!」



雨は好きだと黒死牟は続ける。陽の光を厚い雲が隠すからだと知っている。の生い立ちを聞いた黒死牟は何も言わず、その日の夜に屋敷へと向かった。勿論、も一緒にだ。そうして人の喰らい方を教え、初めてが喰らった娘の着物を着せた。顔も見た事のない、の元へ嫁ぐはずだった娘だ。

老いた父親はその若い、よりも若い娘をも歯牙にかけており、娘の腹にはややこが宿っていた。父親の思惑を知り笑いが止まらなかった。

初めて女の着物を羽織ったは声高々に笑い、それからは夜叉の如く人々を喰らった。美しい着物を着た娘を中心に喰らった。自らが失った美しさを求める様に。



「どうして私を鬼にしたの」
「…意味などない」
「…」
「只、」



お前は美しかったと黒死牟は言った。雨は相変わらず勢いを増している。座禅を組んだまま動かない黒死牟を見下ろしたまま、聞こえなかった振りをする。ねえ、それってどういう意味なの。雨音に掻き消される程、小さな声でそう呟く。雨音ばかりが室内には響いていた。