差し上げましょう、この命を



   ハッと目が覚めた。目前に広がるのは灰色の天井で、ゆっくりと回るファンが一つそこにあった。全身は嘘みたいに重い。特に拘束されているわけではないのに両腕が動かせない。ぐっと力を込め持ち上げれば点滴のコードが数本刺さり、指先にはパルスオキシメーターがはめられている。口元には酸素マスクがはめられているようだ。

頭の中は靄がかかったかのようにぼんやりとしたまま、戻ったのか。そう思った。元の世界に戻ったのだ。目の端から涙が幾つも流れ落ち枕に染みを作っている。涙を拭こうと腕を動かせばこちらを取り囲むように設置されている様々な機器たちが一斉にアラート音を発した。構わずに身体を起こしコード類を剥がす。

ドタドタと足音が幾つも近づき部屋のドアが開いた。看護師が数人と医者だ。酷く驚いた様子で室内に入り、コードを外すを拘束した。振りほどきたかったが身体が思うように動かない。拘束具でベットに縛り付けられた後、医者はライトで瞳孔を確認していた。大声で叫びたかったのだが声を上手く出す事が出来なかった。一通りの処置が終わった辺りに又、足音が聞こえた。



!!」



駆けこんで来たのは見知らぬ男で、男はこちらの名を口にしている。どうやら知り合いらしい。しかしまるで覚えがない。



「何故、彼女を拘束しているんだ」
「錯乱されてます、仕方のない処置です」
「彼女を誰だと思っている、すぐに解放するんだ」
「お待ちください、」



何だ。医者は男を何と呼んだ?



「目覚められた事が奇跡です」
「…!」
「ここは、ご辛抱を」



男は酷く辛そうな眼差しでベットに拘束されているを見つめ、指先で頬を撫でた。この男は知り合いなのだろう。そうでなければこんな真似はしない。

元の世界に戻りたいと思ってはいたものの、こんな展開は予想だにしていなかった。あの日わけも分からずNRCで目覚めた時と同様、何の記憶もない。あの暮らしを手放してまで手に入れたかった生活がこれか。

感極まり涙ぐむも、心拍の乱れは機器を通してダイレクトに伝わる。看護師が点滴に鎮静剤を投与した。すぐに意識は失った。










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―――――どうしたんだ、。そんなに泣いて。お前は念願の『元の世界』に戻ったんだろう。どうして泣いているんだ。僕の可愛いひとの子。そちらの世界はお前を受け入れないか。お前を悲しませるのか。やはり行かせるべきではなかった。お前は僕の側に置いておくべきだった。悔やまれて仕方がない。そうだな。だったら、僕がお前を助けてやろう。次の新月の夜にお前を迎えに行く。お前がどこにいても、僕だけはお前を迎えに行こう。なあ、










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混濁した意識の中、夢にマレウスが出て来た事だけは辛うじて覚えていた。又、目覚めても同じく灰色の天井だ。あの世界に戻る事はなかった。

二日目に目覚めた時には起き上がろうとして又しても看護師から鎮静剤を投与されたものの、三日目の目覚めからは積極的に身体を動かす方向に指示は変わった。医師たちは何も闇雲に安定剤を投与しているわけではないらしい。頭の中にかかった靄は時間の経過と共に僅かながら薄まっている気がしている。

ベットから降り、二本の足で自立した時、膝に力が入らず驚いた。看護師に支えられながら壁に手を付き室内をぐるぐると回る。リハビリにと院内を歩き回る事を勧められ、初めて病室の外に出た。

のいた病室は院内でも最もセキュリティの厳しいフロアにあったらしい。電子ロックの解除キーを首にかけられ見送られた。真っ白な壁に設置してある手すりを掴みながら別フロアへ続く通路を歩く。反対側の壁には等間隔で飾り鏡が並んでおり、自分の姿が見えた。やつれた酷い顔。私はこんな顔をしていたっけ。

通路を半分も渡り切る前にぜえぜえと息が上がりしゃがみ込んだ。私はここで何をしているのだろう。こんなに情けない有様で。満足に歩く事さえ侭ならない―――――



―――――さん



「…!」



―――――さん、こちらです



「アズール…!?」



声は反対側の壁から聞こえる。床を這いながら声の出所を捜す。一番端の飾り鏡にヒビが入り欠片が床に落ちていた。声はそこから聞こえていた。

五センチ程度の小さな欠片を覗き込む。印象的な薄青の目。それがこちらを見ていた。



―――――貴女、何を泣いているんですか



「こんなはずじゃなかったの、もっと楽しいと思ってたのに」



―――――まったく、情けない。そんな事なら手放すんじゃなかった



「こんなにつらい事ばかりなら、私は」



―――――願い事を一つ、叶えて差し上げましょうか



「何?」



―――――貴女の願い事を、この僕が一つだけ叶えて差し上げると言ってるんです



咄嗟に口をつきかけた言葉を止めたのは音もなく近づいていた一人の少女で、少女の足は鏡の欠片を踏み砕いた。反射的に悲鳴を上げ、少女の足に掴みかかる。半狂乱のはすぐに看護師たちに取り押さえられ、すぐに安定剤を投与された。ぐったりと意識を失う寸前に見た少女の顔はこちらを憐れんでいた。










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四日目の朝は最悪のコンディションで目覚めた。拘束は解かれていたが、昨日投与された安定剤との相性が著しく悪かったようで激しい吐き気に苛まれベットとトイレの往復を繰り返した。余りに激しい吐き気の為、途中から貧血のような症状も加わり目の前にある全てのものがグルグルと回転する。



―――――どうしたんだ、そんなに酷い顔をして 又、声が聞こえる。
―――――毒でも盛られたみたいだ
―――――そうに違いない



ジャミルとカリムの声が聞こえる。恐らく洗面台の上にかかっている鏡から聞こえている。



―――――そんな思いをする為に戻ったわけじゃないだろう
―――――お前が辛いんだったら、いつでも戻って来ていいんだぞ、
―――――ああ、俺達はいつだって君を歓迎する



あれは、夢でなかったのか。何故声が聞こえる。どうにか立ち上がり鏡を覗き込みたいのだが、貧血の症状が酷すぎて無理だ、出来ない。二人の声はまるでノイズの様に渦を巻きザラザラと全身に纏わりつく。そのまま気を失い、床に伏しているところを巡回に来た看護師に発見された。

そこにないものが見えるのは脳にダメージを受けたからなのか。存在しない声が聞こえるのは何故。まるで手に取れそうなリアルさで確かにそこにいる。何故。

次に目覚めた時にはベットに寝かされていた。そうしてすぐに入眠。思い出したかのようにふ、と目が覚める。目覚める度にそこにいる人々の顔がランダムに刻まれた。あの男、あの少女、医者、見知らぬ男。知った顔は一つもなかった。そうして又、眠る。夢を、見た。



茨繁る森を進む一団を俯瞰で見ていた。俯瞰の視点により、これは夢なのだとすぐに気が付いた。一団の先頭には白い馬に跨った騎士がいて、勇猛果敢に茨を切り捨てていた。一団の向かう先は分からなかったが、道中次々に仲間が合流し、谷に差し掛かる頃には一個中隊程の人数となっていた。森を進むにつれいわれのない不安に苛まれる。それより先に進むな。進んではならない。幾度もそう叫ぶがの声は届かないらしい。

茨の谷に到着し、人の目では見る事の出来ない入口を捜す。数人の兵士が一人の男を連れて来た。後ろ手に拘束された男は酷い怪我を負っており、恐らく捕虜なのだろうと思えた。



―――――さん、貴女の願いを一つだけ叶えてあげますよ



その捕虜を使い一団は茨の谷へ進んだ。茨の谷の人々はその一団に恐れ戦いた。そのような立ち振る舞いだった。



―――――そんなに辛いんだったら、戻って来いよ!いつだって歓迎するぜ!



茨の谷を掌握すべく一団は城へ向かった。ああ、駄目だ。それは駄目だ。そこにいるのは



―――――お前を迎えに行こう、人の子










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激しい衝撃で目が覚めた。病室自体が大きく揺れ、四方に設置されている機材が倒れる。ベットが壁にぶち当たり床に投げ出された。そのまま床を這い病室の外に出る。

ズズズ、と音を立て建屋自体が揺れている。四方様子を伺い、ひとまずこの建屋から外に出る事を優先する。あの時、ろくに歩く事の出来なかった両足は不思議なほど軽やかに動く。歩みを止めた別フロアへの通路を走り抜けた。

病院なのに人影は不思議となく、それでも激しい衝撃は続いている。ひとまず外へ出なければと非常口へ走る。反対側から数人の人影がこちらに向かい走って来るのが見えた。あれは、私を守りに来たものだ。失われた記憶は全て手に入れた。



様!!」
「何があった」
「…!」
「心配をかけたな」



の一声に助けに来た少女達は泣く。こちらを『様』と呼ぶ彼女達はRSAの生徒達だ。RSAでは優秀な生徒に限り特待生として実際のヒーロー達の側で実務経験を積む事が出来る。現行のヒーローが歩んで来た道だ。



「皆はどこにいる?」
「屋上で応戦されてます」
「そうか」
「向かわれるんですか」
「私を迎えに来たんだろう」
「…」
「約束をしたんだ」
「お気を付けください」



非常階段を駆け上り屋上の入り口を蹴り開ける。強い風が吹き抜け轟轟と燃える空が広がった。黒く渦巻く雲に埋められた空は黄緑色の稲光で埋め尽くされ激しい落雷を繰り返している。こうなる事は分かっていた。



、お前…!」
「心配かけたな」
「記憶が戻ったってのか!?」
「ああ」
「マジか!」



皆、ひと時も休まずにあの時からずっと応戦していたのだろう。普段のヒーロー然とした姿からは想像もつかないほど疲れ草臥れている。すまないと呟き休めと告げれば安堵したように崩れ落ちた。我々ヒーローはこうして命を削り戦う。

事の始まりは茨の国への侵攻だ。過去に統一されたはずの人間の国と妖精の国は内部での争いを続けており、人間側のクーデターという形で平和協定は破られた。きっかけはどうであれ、人間と妖精の戦いは激化した。



「…迎えに来たぞ、人の子」
「あれは、お前の見せた夢だったのか」
「…」
「ねえ、ツノ太郎」



いよいよ茨の国にある城を攻め入った際、王であるマレウス・ドラコニアは王座に座りこちらを出迎えた。光を司るを前に、お手並み拝見と言わんばかりに笑みを浮かべる。こちらもヒーロー側の統率者だ。マレウスを玉座から立たせ応戦する事に成功はした。

戦いは激化の一途を辿り、各国からヴィラン達も集まった。ヒーローvsヴィランの歴史に残る戦いの幕開けだ。そんな最中、はマレウスからの激しい攻撃を避けきれず負傷した。外傷は然程問題がなかったが意識不明の状態が続いた。



「…僕は眠りを与える」
「そうね」
「お前も、目覚めなければ苦しまずに済んだんだ」



ああ、そうだ。確かにそうだ。目覚めなければこんな思いをせずに済んだ。



「あっれー?監督生じゃん」
「一つだけ願いを叶えてあげると言ったでしょう」



あの監督生として暮らした日々は夢だったのだろうか。何の力も持たない只の人の子としてNRCの学生として暮らした日々。あれは幻だったのか。

マレウスの背後、こちらを監督生と呼ぶ見知った顔が並ぶ。目覚めなければこんな思いをせずにすんだ。だけれどこちらも守るべきものを抱えている。



「見せて御覧、勉強の成果を」
「!」
「どの程度の実力なのか、見定めてあげる」
「はぁー!?!?!?」
「そんなのはこっちの台詞だっつーの!」
「監督生の魔法、見てみたいよなー?」



マレウス・ドラコニアは恐ろしい。王として相応しい。心を蹂躙し消えない傷をつける。身の程を知れと言わんばかりだ。お前たちの振りかざす正義の本質を暴いてやろうとマレウスは言ったのではなかったか。そんなもの、無意味だ。こちらも今更後には引けない。



「これで終わりにしよう、マレウス」
「そうだな、人の子」



の手元に光る刀が現れ、これできっと物語はクライマックスだ。流れる涙の理由は知らない。私は今、どんな顔をしているのだろう。