僕は君に成るそして君は僕に成る



   その男の命を狙えと教えられ生かされてきた。飼い主は男の写真を壁に張り、夜な夜な呪詛の如く耳元で囁き続けた。この男を殺せ。物心がついた時には既にそんな状態だったし、物心がつくまでの事は覚えちゃいないわけで、結局のところ思い出せる記憶と言えば壁に張られたその写真と呪詛になる。

飼い主―――――そいつは自身をお前の飼い主だと言っていた。だからもそいつの事を飼い主と呼んでいた。飼い主は幼いに餌を与え、飼い、呪詛を囁き続けた。

5歳になると飼い主はを鍛え始めた。男を殺さなければならないのだから至極当たり前の事だ。その時はそう思った。男を殺す為には強くならなければならない。毎日のように生傷が増えた。飼い主はに様々な体術や武器を使った戦闘方法を叩き込んだ。

何故飼い主がそんな事を知っていたのかは分からないが、男を殺さなければならないは否応なしにそれらを叩き込んだ。少しでも弱音を吐けば飼い主からの折檻が待ち受けている。泣き言は許されなかった。

年を取るにつれ飼い主の教えは厳しさを増し、実戦を交えるようになった。強かに打ち付けられ気絶してしまう事も少なくなく、嘔吐物に塗れたまま目を覚ます事もあった。飼い主は自身に一切の感情がないのだと気づいたのもこの頃だ。未だに男を殺すという目的は滲まないようで、色褪せていく写真とは裏腹に呪詛は変わらず続いていた。



「…生きてるかな」
「…」
「三日ほど不在だったんだが」



飼い主がを連れ住処を離れたのは、確かが15歳になった頃だ。の背はとっくに飼い主を超していた。その頃には既に病に侵されていた飼い主は未だの出来上がりに不満があれど残された時間は少ないと踏んだのだろう。を連れ男の元へ向かった。これまで人里離れた僻地で暮らしていたにとって初めての街だ。自分と飼い主以外の生き物を目にしたのも初めてで酷く興奮した。



「こいつは丈夫な女だ」
「…」
「なあ、



飼い主はを連れ、とあるホテルに宿泊した。そこが、目的地だった。男は隣の部屋に宿泊しているのだと飼い主は言った。壁に耳をあてても何の音も聞こえなかった。隣の部屋がルームサービスを頼んだ時がチャンスだと飼い主は言った。GOを出すのは当然、飼い主の役目だ。はベットの上に座りじっと待った。

チャンスが訪れたのは深夜2時。ルームサービスを運んできたバトラーの背後に潜み室内に潜り込んだ。



『そんなものをオーダーしたかな』



男はそう言った。



『ええ、確かにご注文頂きましたよ』



バトラーはそう答えた。記憶は一旦そこで途絶える。次に目覚めたのは酷く暗い部屋で両腕は鎖に繋がれた状態だった。一寸先も見えない有様だが、すぐそこに男はいたようだ。強かに打ち付けられたのだろう、後頭部が酷く痛んだ。グラグラと揺れる視界の中、幾度か吐いた。



『隣の部屋にいた男は始末したよ。俺を狙う為にお前を囲っていたとは恐れ入った。随分と執念深い野郎だ』
『飼い主は死んだのか』
『飼い主だと…?お前、飼い主って呼んでたのか?あの野郎、とんでもない性癖だな』
『何がおかしい…』
『何が、って。何もかもさ。お前に関しては何もかもがおかしい。まったく』



男の指が顎を掴み無理矢理に口を開けさせた。そのままドロリとした液体が校内を汚した。酷く甘ったるくて、すぐに苦み走る最悪の後味だ。すぐに全身が燃える様に熱くなった。

その熱さはすぐに全身が真っ二つに切り裂かれるような激しい痛みに変わる。声が掠れる程喚いてもまったく紛れない。次に目覚めたのはこれまで見た事のない世界だった。

まず驚いたのはその明るさだ。眩い程の光が燦燦と降り注ぐ。そうして風。鰭はなくなりその代わりのように棒のような二本の足と呼ばれるものが生えていた。水の中では身軽に自在に動けていたはずの身体は酷く重く自在に動かす事が出来ない。だからベットの上で目覚めたは拘束を解かれ、それでも自由に動く事は出来なくなっていた。白いサテンのシーツの中を手探りで彷徨う。呼吸の仕方もよく分からず目覚めて数時間は呼吸困難で幾度も気絶した。

幾度目かの失神から目覚めた時、男はすぐそこに座っており、ここにお前は住むんだと言われた。海には二度と戻る事は出来ないとも言われた。どういう話なんだと掴みかかりたかったが、生憎この両足は何の役にも立たない。それどころか男から易々と組み敷かれる始末だ。

水の中では自在に動かす事が出来たのに、握力さえも殆どが失われたようだ。男はの初めてを奪った。それが何なのかさえ知らなかったを眺め、哀れだと笑った。お前が汚されていなかったところを見るに、奴は不能だったんだな。そうとも言った。

男は飼い主の事を酷く罵る。命を狙われていたからだろうか。だから、こんな目に遭わせるのだろう。そう思っていた。男の言う通り、は地上のその部屋で過ごす事になった。両足を使い歩く事が出来るようになるまで三ヵ月程かかった。

自由に動く事が出来るようになれば逃げ出せるかとも思ったが、地上の世界は恐ろしく一人で外に出る事さえ叶わない。自分の世界には飼い主しかいなかった。そうして今は男しかいない。生きる術を選ぶ時だ。



「…お仕置きにしちゃ、詰まらないわね」
「お前が他の男に色目を使うからだろう」



殺すべき男の庇護下に入る道を選んだ。その道しか恐らく残されていなかった。従順になったに男は一般教養を叩き込んだ。生きるにあたり必要な知識は何一つ与えられていなかったからだ。

ここは地上だという事、地上では肺呼吸をするという事。魔法薬を飲ませ足を生やしたという事。にも魔法を使う力があるという事。飼い主を失った以上、一人で生きて行く力をつけなければならないという事―――――

半年後には一人で外へ出る事も容易になり、人と接する経験を積んだ。男から紹介された仕事をこなし、僅かばかりの金を受け取り家に帰る。男は週に一度、顔を出しを抱いた。これはきっと所謂普通の暮らしだ。少なくともはそう思っていた。

男から紹介された仕事はカフェの店員だ。昼間はカフェで夜はアルコール類も提供する店で、男はオーナーという立場で関わっているようだった。男の存在は店で認知されておらず、雇われの店長のみが知っていた。そこで働きだし、同世代の人々と初めて接した。バイト終わりに皆でご飯を食べに行ったり、休みの日は遊びに行く事もあった。男は週に一度しか来ない。皆がやっている事だし、別に問題はないだろうと思っていた。



「他の男と寝るなって言うの」
「そうだよ」
「実の父親以外と寝るなって言うのね」



男がこちらを見た。



「知らないとでも思ったの」
「…知っていれば寝ないさ、普通は」
「親子で寝るのは普通じゃないのね」
「あぁ」



だから俺はお前をここに閉じ込めるのだと男は、父は言う。お前は二度と海には戻れない。あそこにはお前の母親もいる。俺の愛する美しい妻だ。お前はいない娘だ。それにこの俺が抱いた女だ。絶対に海には戻らせない。お前を手放すつもりもない。お前は俺の、この俺の唯一の娘だ。愛する妻との間に出来た美しい娘。お前は俺のものだ。もう二度と、誰の手にも汚させない。



「…あの人は、何だったの」
「数多いる商売敵の一人さ」
「あんたを殺したがってた」
「あぁ」
「私も同じ気持ちよ」



の目をじっと見つめた男は嬉しそうに笑い、カラカラに乾いた唇を撫でた。週末に顔を出した男はいつものようにを抱いた後、腹を手酷く殴りつけた。咄嗟の行動に防ぐ事の出来なかったは倒れ伏し、次に目覚めた時には鎖に繋がれた状態だった。鎖は首輪に繋がっていた。男の姿はとうになく、鎖はどうしても外せない。食料も水分もなく三日が経過した。身体は明らかに衰弱していたし、床に直接粗相をした。男はそういうやり方をする。知っていた。



「来週、客を連れて来る」
「…」



まるで普通の家庭を装う男の腹は読めない。実の娘と言えど産まれてこの方十数年会っていない女だ。互いに親子だという自覚はない。だからといって許される事ではないのだ。男がようやく首輪を外した。細いの首には首輪が擦れたせいか赤い痕がついていた。