悲しいね、ほんの少しだけど



   合鍵を渡している相手は一人しかいない。元々誰かを好きになる性質ではない。

企業買収を主に行う外資系企業を渡り歩く父親は数年顔を見ていないし、そんな父親に見栄えの為だけに選ばれた母親は有閑マダム専用のデートクラブに登録し、娘と大差ない年齢の少年を手籠めにしている。

まるで違う人間同士ながら子供は足手まといになるという考えは一致しているようで、中学に入った時にこのマンションに住む事となった。このマンションの名義は母親でが成人すると同時に名義に変更される予定だ。

未成年という立場は極めて弱い。故に価値がある。利己的な両親の元で育てば早い段階で愛情など求めなくなる。少なくともはそうだった。

が通った中学は酷く荒れていた。我が子に一切の興味を抱かなかった両親はどうやら知らなかったらしい。通っていた中学はまさに弱いものが喰われる弱肉強食の世界だったが、それは大人になっても変わらない。弱肉強食の世界は死ぬまで永遠に続く。金持ちの子供はターゲットになりやすい。一度でも屈すれば二度と浮かび上がる事はない。だったら、最初から喰う側に立つ。人の心を弄ぶ事には長けていた。

中二の夏に一瞬だけ帰国して来た父親は外聞を気にし、母親を強かに怒鳴りつけていた。父親の仕事は早い。夏休み明けから私立の中学に編入が決まった。



「何その顔」
「寝る」
「また喧嘩したの?バカね」
「うるせー」



この部屋の合鍵を持っているのは只一人だ。丑嶋馨。中二の冬に転校して来た彼の事を知っていた。小学生の頃も特に関わり合いはなかったのだけれど、顔は知っていた。柄崎達と揉めていたようだったが詳しくは知らない。で学校へ通う日数が極めて少なかったからだ。

よくない事をする輩というのは同じ世代で分散する。柄崎達のような地元密着型の不良は横に繋がるが固定された世界からは出ない。私立の中学に編入したはそこで金持ち学生の暇つぶしを提供する事にした。彼女らは退屈を持て余していた。



「ねぇ、馨」
「…何だよ」
「今日、泊まってく?」
「…」



彼女が援助交際に手を染めている事に気づいた男が怒鳴り込んで来たのは編入して二ヶ月後の事だ。激昂する男は珍しくないのだけれど、現金の受け渡しに使う喫茶店に乗り込んで来た男は初めてだった。男の後ろにはもう一人男が立っていて、彼は散々と怒鳴り散らす男を見ながらじっと黙っていた。一頻り怒鳴り終えた男に対し、も淡々と返す。

別に無理強いしてるわけじゃないし、あんたの彼女が好きでやってる。あんたに何か買ってあげたいらしいけど。それって私のせいじゃないわよね。

激昂した男がに殴りかかってきた瞬間だ。背後の男が振り上げた腕を掴んだ。それが丑嶋馨との出会いだ。別にお前は間違っちゃいないと丑嶋は言った。



「他に行く所があったら、別にいいけど」
「…」
「馨」
「ねーよ」



丑嶋とこういう関係になったのはすぐの話で、喫茶店の一件、その翌日にも丑嶋はそこへ来た。今度は一人で来た。彼の姿が見えた瞬間、それを期待していた自分に気づき驚いた。愛情の示し方など知らない。他愛もない会話を一つ二つ交わし、そのまま店を出た。互いに言葉を交わさないまま自宅に向かう。普段の自分なら考えられない真似だ。丑嶋も何も言わずついて来た。

その日にヤった。こんな真似をしておきながらは初めてだった。丑嶋もきっとそうだ。その時に合鍵を渡した。



「別に行く場所なんかねーよ」
「…」
「怪我、痛くないの」
「痛ぇ」



付き合うとか付き合わないとか、そういう言葉さえも口に出せない。他の誰かと同じ約束を交わしていたらと思うと怖くて言えない。これまで愛情を蔑ろにしてきた罰だ。その仕組みもやり方も理解出来ない。こちらから連絡をする事もない、気まぐれにこの男が合鍵を使う以外術はない。言葉にした途端、消え失せそうで恐ろしいのだ。愛なんて知らない、愛などそんなもの手にした例がない。

殴られうっ血した丑嶋の皮膚を眺めている。目を閉じたままの丑嶋が、見てんじゃねーよ。そう呟いた。