まほろばを探して君の処に



  父は由緒ある家の出だった、らしい。大政奉還前までは幕府に仕える武士として生きていたらしい。らしい、というのは何故か。産まれてこの方、マトモには働いてる父親の姿を見た事がなかったからだ。

母親から聞いた話では、幕末の動乱の際に生死を彷徨う大怪我を負い、それ以来酒に溺れるようになったらしい。封建制度の崩壊は武士たちに大きな打撃を与えた。新しい生活に慣れず仕事に就く事の出来ない者も多くいたと聞く。少なくとも父はそうだった。

物心ついた時から父は飲んだくれていたし、を見る事はなかったように思う。母親が華族の出だった為、仕送りを受けどうにか生きて行けるような有様だった。

そもそも、は生まれるはずのない子だったらしい。大怪我を負い引きこもり酒に溺れた父が母を無理矢理に犯し宿った。それでも母はこちらを十二分に愛してくれた。唯一の救いだ。

母はに教養を与えた。文明開化と共に女性の自立に強い魅力を感じたのだ。飲んだくれの父を捨てる事も出来ず、家柄に縛られる自身の人生を顧みての事だったのだろう。実家に頭を下げに高等教育を学ばせた。



「…どうしたんです、鯉登少尉」
「お前とはいえ、女一人では不安だろう」
「お優しい事で」



そんな手厚い教育を受けたにも関わらず、現状はこれだ。が学んだのは様々な言語だ。英語、中国語、ロシア語は自在に操る事が出来る。学んだ後に世界へ旅立つつもりが、先に近づいて来たのは戦火の炎だった。

ロシア語を操るは大日本帝国陸軍に重宝された。通訳として戦地に赴くのかと思えば、そんなものは歩兵にでもやらせろと上層部は笑った。に命じられた勅命は『スパイ』。戦時中は重要機密の翻訳に従事し戦地に赴く事はなかった。母親の家柄が大きく影響していたのだろう。



「明日、発たれるんでしょう?眠った方がいいわ」
「いや、いい」
「また、そんな我儘を言って」



戦争が終わってもスパイとしての仕事は続いた。一度手を汚せば二度と元の生活に戻る事は出来ない。騙されたと思ったが今更だ。軍からの指令を受け人も殺した。鶴見中尉と出会ったのは丁度その頃の事で、彼はを前に『美しいお嬢さん』そう笑った。



「お前はどうするんだ」
「私は本来の仕事に戻るわ」
「…」
「鶴見中尉の我儘に付き合っちゃって、結構無理してるのよ」



が北海道へ行くと知った中央の人間は、顔を会わせる度にあの男には気を付けろと言っていた。カリスマ性と危険性を備え持つ男だという噂だった。実際に顔を合わせた時に、その噂は間違いではなかったのだと知った。

心を見透かすようなあの目。少しでも気を抜けばあちらのペースに巻き込まれるだろうと思った。まあ、それは図星という奴で、こちらが気を抜こうが抜くまいが彼が強引にを巻き込んだ。

月島軍曹ともいい加減顔見知りだ。だから、この鯉登少尉の一件も知っている。自分の出自は棚に上げ、このボンボンが、と思っていたのだが、



「…」
「…」



寝ずの番をしていたの元に鯉登少尉が顔を出したのは小一時間ほど前の事だ。前回の戦争で主を失くした建屋はある程度把握している。今いるこの館もその内の一つだ。客人達は二階の客室に眠っている。

この一晩を乗り切るべく番をしていれば足音が聞こえ僅かに緊張した。銃口を向け構えていれば足音の主は鯉登少尉だったわけだ。こんな時間にどうしたんですか。そう言えば上記の台詞に繋がる。



「ちょっと」
「今夜が最後だ」
「そんな事は」
「私も、お前も」



そう長生きは出来るまい。す、と手を重ねて来た鯉登少尉はこちらの目をじっと見つめたままそう言う。只のボンボンだと思っていたが、それよりも只の男の方が勝ったか。わざわざその為に寝具を抜け出して来たのか。



「二度と会えないのに、どうして」
「だからだ」
「だから?」
「お前が忘れないように、私が忘れないように」



重ねた手に重心が移り、鯉登少尉の顔が近づいて来る。やけに慣れた手口だな、とこちらは妙に冷静に考えていた。こんなに真摯な言葉を口にしながら女を喰ってきたのだろうか。まあ、そんなのはどうでもいい話なのだが。

だけれど確かに鯉登少尉の言う通り、我々のような生き物は長生きなど出来ない。刹那に生きるのか。じりじりと近づく鯉登少尉の影が大きく伸びた。男の思惑に乗っかる様に、こちらも身体を倒した。