いっしょに泣いてあげるから



   は、こんな自分なんてものとは到底身分の違う娘だった。陸軍将校の娘であり、この辺りでも名家と呼ばれる家で何不自由なく暮らしていた。自分だけではない。誰もかれもが彼女に焦がれ憧れていた。

彼女の住む屋敷は余りに広大な敷地の中に建っており、母屋を囲むように整えられている広い庭先では花を愛でる。そんな彼女を塀の隙間から覗き見る日々に心は満たされた。女学校に通っている彼女は羨望の的だった。

雨の日も雪の日も塀の隙間から彼女を見つめる事がやめられず、いつしかそれは習慣となった。声をかけるなんて余りにも烏滸がましい、この目に収めるだけ十分だったはずだ。彼女の姿を見るだけで心は満たされ生きていてよかったとさえ思える。恵まれない生まれの負をその瞬間だけは忘れる事が出来た。

そんなある日、いつもの様に眺める庭先に見知らぬ男がいた。軍服を着たその男は彼女の肩を抱き2人で庭の散策でもしているようだった。やけに仲睦まじそうなその姿に心底ゾッとした。吐き気を覚えながらもまんじりと様子を伺い続け、縁談が近い事を知る。もうこの世の何もかもが儚く全てが無為になった。

正直な所、それから今に至るまでの記憶はない。激しいショックが現実を認識させる術を失わせた。の存在も何もかも、この世の苦しみもまとめて記憶から消し去ったのだろう。それがどうだ。鬼となった瞬間にその全てを思い出した。彼女を、という存在が息を吹き返したのだ。

鬼になったその足での屋敷に向かうも、彼女はとっくに嫁いだ後だった。使用人諸共、彼女の家族を皆殺しにした。は嫁ぎ先でもあるあの男の家にいた。真夜中の歓迎されない客人は当然ながら持て成されない。刃を向ける男は殺しその血を啜りながらの元へ急ぐ。



「迎えに来たよ、
「お前の様な者など知らぬ」



震える声で気安く名を呼ぶなとは言った。当然だ。彼女はこちらの事など知らない。知るわけがない。短剣をこちらへ向け気丈な口調でこちらを睨む。



「キミの家族は皆殺したよ」
「何…!?」
「これはキミの家族の返り血さ」
「…!!」
「大丈夫だよ」



こんな世界なんて捨てて僕と旅に出よう―――――










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ふと目覚めると目の前で愛する男が死んでいた。これは夢だろうか、分からない。そろそろ始まる大きな戦いに向け、彼は戦地へ赴くと話していた。それは仕方のない事だと頭では分かっていたのだが、それでも酷く苦しい。

戦地に出向けば遅かれ早かれこうなると分かっていたはずだ。ここはその戦場か。戦いの果てに愛する男は死んだのか。血を流す骸を前に絶叫する。ここはとても暗く冷たい。私以外誰もいない―――――



「どうしたんだい、そんなに悲しい顔をして」
「お前は…」
「それが死んだ事が悲しいの?」



男はの腕の中で横たわる骸を指さし、それ、と言った。



「…どうしたの?怒ったの?」
「何故お前はここにいるの」
「それのせいで、おかしくなってしまったのかな」



男は困ったように笑い指先をパチンと鳴らした。数秒の間があき、その間短期的な記憶喪失にでもなったようだ。ふ、と目覚めると目の前にはつい先ほどまで倒れ伏していた愛する男がいて、丁度心の臓を撃ち抜かれる瞬間だった。苦悶に歪むその顔が視界に入り、届かないと分かりながらも指先を伸ばす。暗転。

次は敵の兵士に馬乗りになられ銃剣をゆっくりと胸に突き付けられる姿。暗転。火だるまになりのたうちまわる姿。暗転。敵の捕虜となり、指先から細かく刻まれゆく姿―――――



「…!」



ハッと目が覚めればいつもの天井だった。懐かしい。これは実家の天井だ。燦燦と朝日が注ぎ爽やかな目覚めだった。これは何ものにも変えられぬいつもの朝。支度をして部屋を出る。

いつもにこにこと明るい母親は開口一番に言った。今日はいよいよ縁談の日ね。最高の一日にしましょう。ああ、そうか。今日はあの方との縁談の日だった。母親や乳母と共に縁談の準備をする。何一つ不備のない完璧な1日。

美しく着飾った娘を父は目を細め見守る。大広間のドアが開き、愛する男が私を迎えに来た―――――転換。

目に入ったのは血に染まった大広間だ。銃剣を片手に立ち尽くす男。愛すべき男はこちらに背を向けている。床に散らばる父、母。呻く乳母に今一度銃剣を突き刺しゆっくりと振り返る。言葉もないに男は言った。苦しくて―――――

その悪夢は延々と繰り返される。目を覚ます度に新たな悪夢に襲われ、はどんどんと疲弊し正常な判断力を奪われてゆく。最初は絶望だけを叩き込む。次に夢の中へ介入する。

最初は通りすがりの見知らぬ男として、次に挨拶を交わす知人として。そうして徐々に存在を大きくする。の精神は健気にも危機を察知している為、まだまだその夢は悪夢で終わる。しかしそれもじきにだ。じきにこの僕を幸せな結末として受け入れる。心が壊れればそうせざるを得ない。

そうしたら目覚めさせてあげるよ。目覚めた上で選ぶんだ。君の大事な人はとっくに死んでしまったこの世で苦しみ続ける現実か、この僕に愛される夢の方がいいのか。君は、どちらを選ぶんだろうか。