もう逢えないのでしょうね、知っていたけれど



   出来るだけ全身の感覚が鈍るようにラムネ菓子感覚で錠剤を流し込む。ダークウェブ経由で手に入れた呪力を低下させる薬だ。一時的にでも呪力を普通の人間並みに抑える事が出来る。この耳に届く音も肌に触れる感触ももう全てが無意味で何ものにも干渉されたくはないのだ。

睡眠薬による音もない深い眠りから覚めまず五感をシャットダウンするところから一日が始まる。そうして厚いカーテンを開ける事無く只こうしてこの部屋で無意味に時間を消化する。何もない、特に何も、まずこの部屋にはテレビもパソコンも何もないし携帯の充電はとうに切れている。

カラッポの冷蔵庫には何も入っていないし水道も電気も本来であればとっくに供給が止められているはずだ。酷く暑い夏の日なのにエアコンは稼働している。埋め込み式のエアコンだ。止める事は出来ない。

新宿の街が一望できる高層マンションの一室がの住処になる。住処といっても契約は別名義だ。実際にこの部屋に住み始めてから実際は半年程だ。住み始めてから、というよりも捕獲されてから、と言った方が近いかも知れない。



「あれ~~?今日も相変わらず元気ないねー」
「…」
「まーたそんなに飲んで。身体に悪いよそれ」
「悟」



この部屋から出る事は容易いだろう。それでも出る事は出来ない。そこまで思い切る事は出来ない。私にはまだそんな事は出来ない。その事を悟も知っているのだろう。この男はそういう機微に興味がない癖に敏感に察する。何にもなりはしないのに。



「流行りのサンドイッチ屋に並んだんだぜ」
「…」
「お、あの売り子のおねーちゃん、サービスしてくれてんじゃん」
「傑は」
「フルーツサンドが一番人気らしーよ」



傑が造反を犯した。その事を知ったのは単独任務で地方へ出向いていた時だった。どう任務を片付けたのかはまったく覚えていないが、どうやら呪霊は始末されているらしい。気も漫ろながら呪術師としての責務は全うしたと見える。

焦り高専に戻るもそこにはやはり傑の姿はなく、正直なところその時点での世界は完全に閉じた。誰にも知られる事のない関係が露呈したのもその瞬間だった。故に彼女は共犯なのではないかと疑われ、聴聞会にかけられる事となった。嘘を吐く事が出来ぬよう制約のかけられた発言台にては何も知らないと言った。

放免となったは高専に戻らなかった。精神的に衰弱した為に暫く療養しているとの話だった。皆、それを、



「呪力を消したって意味ないよ、
「…」
「そんな事したって意味ない。分かってるでしょ」



皆、それを信じなかった。実際に見舞いに行くと言っても肝心の病院の名前一つ分からない有様だ。内密に処分されたのではないか。何より傑は実の両親もその手にかけたのだ、そちらの線も捨てがたい。そんな噂も流れた。

行方を晦ましたは街を流れ傑を捜していた。彼が『盤星教』を母体とした新興宗教の教祖と成った事は知っていたが不思議なほど近づく事が出来ない。彼が意思を持ってこちらを遠ざけているのだろうと思えた。街中で勧誘している信者にさえ近づく事が出来ない。

どうして。どうして。どうして私を連れて行ってくれなかったの。傑。



「俺はさぁ、もうどっちでもいいんだよぶっちゃけ」
「…」
「お前の呪いが解けようが解けまいが、そんなのはどっちでも」



繁華街の路地裏で倒れているを発見した時、彼女は分かりやすく瀕死だった。心臓近くに強い呪いを撃ち込まれショック状態に陥っていたのだ。に触れるまでもなくその呪力には傑の痕跡が見て取れた。

そのまま五条家名義で借りてある高層マンションへ連れて行く。部屋の鍵をあけ一歩踏み込んだ瞬間だ。に撃ちこまれた呪いが発動し薄ぼんやりとした呪霊が姿を表す。低級呪霊だ。をジッと見つめドアに吸い込まれた。



「元気になってよ、
「…」
「早く戻って来てよ、頼むよ」



俺を一人にしないでよ。お前も、傑も、どいつもこいつも。お前らはみんなそう。俺に置いて行かれてるって言いながら、お前らはみんな俺を置いて行く。俺が強いからと、そんなにも残酷な言葉を残して。

と傑の関係にはまったく気づかなかった。一つ上の学年である彼女は優秀な呪術師で、学生ながら頻繁に任務へ赴いていたから顔を合わせる回数も少ない。

別にいい。そんなのはどうでもいい事だ。別に欺かれていただとか、そんな話をするつもりはない。もう何も、世界は何も変わらない。



「あの夜、電話がかかってたの」
「…」
「時間帯から見て、皆殺しにした直後よ」



傑が何を伝えたかったのかは分からない。その着信に気づいたのは翌朝の事で、折り返しても応答はなかった。

その着信がを縛り付ける。あの夜に傑は何を伝えたかったのか。何か伝えたい事があったのではないのか。何か。彼が私だけに伝えたい事があったのではないのか―――――



「…だからじゃねーの」
「…」
「あいつらしいっちゃらしいじゃん」



お前は私を忘れるべきだと傑は言った。見た目は傑だった。声も、喋り方も佇まいもよく知った男だった。眼差しもだ。私も連れて行ってと吐き出したを見て溜息を吐き慈愛の心を見せる。何故。



「忘れろって言うのよ」
「俺もオススメ、そっちのが」
「だったらここで朽ちた方がマシ」



傑の放った呪霊は記憶の一部を喰らう。その者の一番強い思いの宿った記憶を奪う。呪いと呼ぶには余りにも慈愛に満ちた代物だ。次にその呪霊に触れた時が発動の契機となる。だからそれは唯一の出入り口である玄関に陣取った。



「あいつの事、忘れちゃいなよ」
「嫌よ」
「そしたら俺に惚れるんじゃん?」
「それはないけど」
「俺はそっちのがいいと思うけどね」



なんちゃって、と笑う悟は知らない。あの時、こちらに呪いを放つ直前に傑が言った言葉を知らない。私を忘れた方がいい。あいつにならお前を任せられる。



『親友だからな』



だからこの部屋を出る事が出来ないでいる。記憶の中の傑は未だ色褪せない。囚われているのだ。