離すものか二度とこの手を



   この任務に付きもう幾度目の夜だ。抜け出す事の出来ない迷宮に入り込んでしまったような、そんな錯覚に見舞われ続ける。

海外から呼び寄せた単価の高い呪術師に『ルーム』と呼ばれる術式を依頼し潜伏する空間を調達している。ルームの中はマンスリーマンション程度の設備が揃えられており長期的な監視や潜伏に使う事が出来る。

術中の呪術師は安全な場所に安置され延々と眠り続ける。元々呪力のそう強くない術者だが、この稀有な力の為に重宝されているようだ。話によれば一族全員が同じ生業を営んでいるらしく、呪力の弱い一族の生き抜く糧と呼べる。

丁度射程距離ギリギリの位置で目標を捉える。それに何の意味があるのかは未だに分かっていない。

夏油傑の離反後、すぐに極秘任務を命じられた。あれを見張れ。一切手は出すな。あれの元には数多の非術師が人質という自覚もなく集まっている。動向を見守れ。ほんの僅かな異変を絶対に見落とすな。何もかも全てを逐一報告しろ。

そう厳命されこの術師を紹介された。十代半ばの顔色の悪い少女だ。ここへ来る前はヨーロッパの方で任務に就いていたらしい。目標は盤星教を母体とした新興宗教の現教祖である夏油傑。目的はその監視だ。

ここに来て一秒も目を離さずあの男を見続ける事になるなんて随分と皮肉な話だ。このルームからは夏油の住居がよく見える。彼はあの事件の契機となった幼い二人の女の子と共に暮らしていた。この一方向からしか見る事が出来ない為、その視界の範疇だけがの知る夏油の全てだ。

この無音に包まれたルームという孤独の中で延々と同じ男を見つめ続ける。これまで幾度か複数体勢を試みた事がある。余りの孤独に耐え兼ねたからだ。話し相手になれば誰でもよかった。

当の夏油は自身が監視されている事に気づいている。こちらに視線を向けたり微笑んだりとやけに余裕のある態度だ。まるであの頃と真逆。それでも彼は以外の呪術師に対しては極めて残酷だった。

最初の一人は瞬きの合間に喰い殺された。こちらを見つめ微笑んだ直後の事だった。二人目、三人目も同じ末路を辿りこの任務は一人固定となった。

このルームにて只ひたすら一人の男を見つめ続ける。どんどんと孤立する己に気づいていた。何の音もないこの世界で四六時中あの男を見つめていれば、否応なしにこうなる以前の視線を思い出す。

学園内でふとした時に気づいた、こちらをじっと見つめる傑の眼差し。何時頃からか気づき始めた。学年が違う為、余り顔を合わせる事はなかったのだが元々頭数の少ない高専内だ。丁度傑と同じ学年にあの五条悟がいる事もあり目にはついた。別に先輩風を吹かせるわけではないのだけれど、あの不遜な眼差しといい生意気な後輩だと思っていた。

傑は確かにこちらを見ていた。春も夏も秋も冬もふとした瞬間に感じる視線の主は傑だった。流石にその頃になると何もないとは思えず、薄っすらとながら好意でも抱かれているのだろうかと察する。だからといってだ。呪霊ばかりを相手にする生活に追われそれどころではない。

幾度か怪我を負い、それが完治するまでの僅かな間に久々の長期休暇を貰った。学生の本分だなと思いながらぼんやりと教室から外を見つめる。皆、呪霊を祓うべく忙しなく飛び回り教室には一人だ。肝心の教師もいない。というか三日前からずっとそうだ。

とりあえず教室へ来るが教師も含め全員が任務に出払っており、至って無意味な時間を過ごす。教室から見える空は青く、ここには呪霊も何も存在しない。椅子にもたれ天井を仰ぎ目を閉じる。



「…何」
「何だよ、気づいちゃ駄目だって」
「気配を消すのが下手ね、傑」



目を開けば目前に傑がいた。机に肘をつきこちらを見ている。こんなに近い距離は初めてだ。この男はやはり私を見ている。今日はこんなにも、近くで。



「怪我したって聞いてさ」
「バカな真似しちゃったわ」
「私が治す」
「そんな力ないでしょ」
「いいから、ほら」
「ちょっと」
「手、貸して」



傑の手は大きい。体躯と同じく大きな手だ。放課後の校舎で触れた手と手。それはそのまま傑の口元に運ばれ、そうして指先を含んだ薄い唇。冗談さ、と笑った男の顔。

全てを覚えている。だから余計に億劫だ。あの時笑った男の顔が又、こちらを見ている。おいでおいで、とこまねきながら。