君の瞳に幻を見る

緩々と立ち上がりシャツを取った。
曖昧な感覚の中急に酷い痛みが襲い左肩を押さえた。
眼差しをそこへ集中させれば血が滲む歯型がうつる。笑った。


生ぬるいこの部屋に白蘭はいる、湿ったシーツが邪魔だった。
だけれど振り返る事は出来ずそのままバスルームへ向かう。
ひたひたと微かな足音が聞こえているだろうか、分からない。


それにしてもやけに気だるく吐き出す息さえ億劫に感じるのだ。
軽い立ち眩み、そうして吐き気。
未だ性器にこびり付いている体液。既に乾ききっている。
シャワーを全開にし冷えた湯を浴びた。
その時気づいた唇の端の小さな傷。もう一度笑った。


吐き気の原因のような気がして唾液を吐き捨てた。
排水溝に巻き込まれる血の混じった唾液を見つめる。
余り頭が働いていないようだ。徐々に湯が温まり冷えた身体が熱くなる。
一気に眠気が襲い掛かる。タイルに額をつけ目を閉じた。
思い出す、思い出せ。少しだけ思い出せるような気がした。
喉、胸、腹。色は?


「うーん・・・」


気持ちが悪い。
小さく呟いた白蘭はそのままずるずると床に座り込んだ。
このまま夢を見たい、夢を見始めるまで後数秒。
シャワーの音が鳴り響く狭いバスルームで眠ろう。
ベッドでは到底眠れそうにないからだ。きっと、絶対に眠れない。
小さく何か、呻きのようなものが聞こえただろうか。
分からない、それでも今は目を開けられず流れに見を任せた。




■■




ようやく外れた布を噛みながら身を揺さぶる。
頭上に組まれた手枷付きの腕を必死に暴れさせどうにか逃走を図ろうとしているのだ。
ゴージャスな天井は随分見慣れてしまったもので
細かな金細工のデザインさえ脳裏に焼き付いている。
この部屋に押し込められてからどの位の時間が流れたのだろう。


「・・・クソっ」


外れやしねぇ。
そう呟きすぐに丈夫なモン作りやがって、そう吐き捨てた。
手首はすっかり擦り切れ血に塗れているし、それは酷く痛んでいるのだ。
何よりも一番腹が立っているのは不甲斐ない自分に対してだ。
一瞬でも気が緩んでいたのだろうか。まあ過ぎた事だ。


白蘭の首を取り損ねた。


それにしてもこの状態は何と例えるのだろうか。
裏切りなのか、若しくは情けなのか。
取り損ねた時点で死を覚悟したし(そもそもミスは命取りなのだし)
組織の人間もが生きているとは思っていない。
要は完全に用なしになってしまったのだ。自分と言う人間は。
既に生きていない人間だ。死んだも同然。死んでいるのだろうか。
それにしては痛覚も正常だし狂える事も出来なかったらしい。
何故頭は正常なのだろう。


笑い顔しか見せない白蘭が怖ろしくなっている。
それでも哀しいかな恐ろしさを見せてはならないと自制心が働き
(今更何の役にたつというのか)平気な振りをする。
それが嫌でも好きでもなさそうに白蘭は、やはり何も変わらないのだ。


自分という存在がなくなっていく過程が見える。
じきに欠片もなくなってしまうだろう。
生死を厭わず、そんなものに(恐らく)興味はないのだろう。
も、白蘭も。
この部屋に連れ込まれそれこそ最初に目にした燃える白蘭の眼差しにだけ怯えている。 笑顔とあの眼差しが余りに馴染まず脳裏に刻まれた。


「畜生」


更々と耳に聞こえるシャワーの音。
あれが止まらなければいいのだ、死ぬまで。




■■




湯が出ているはずなのに不思議と冷えた身体は風邪をひいたようだ。
一つくしゃみをし濡れたままバスルームを出る。
この部屋は白蘭の秘密の部屋だ。
古城を買い取り普段は気の知れた人間に管理をさせているのだけれど、
時折フラリと立ち寄る。そう、こののように命を狙う輩がいる時に。
ベッド以外に目に付く家具はない。灯りさえ蝋燭だ。
シャワーだけは使い勝手のいいものを取り付けた。用途は色々と。


湿ったシーツは未だ乾いておらずその上にはいるのだ。
ずっと。楽しい。嬉しい。
既に諦めている癖にこちらを伺うの眼差し、
生きていたいという気持ち。それが伝わる。


「・・・
「・・・」
「どうした」


濡れた髪から水滴が滴る。シーツの上に染みを作る。
熱を帯びだるく眠い身体のはずなのにまったく眠気は襲わず唾を飲み込んだ。
この部屋へ足を運べば全てが止まらない。この先どうなるかも分からない。
どうしたいかも分からないのだ。
只今はこのまま同じ事を繰り返す事を望んだだけだ。




γの話に出て来たあの古城です