R壱指定



  高専を卒業し準一級呪術師として半民半官の組織に所属する事になり二年だ。この組織―――――所謂出先機関と呼ばれるものになるのだが、これは呪術界と強い繋がりを持つ組織であり、主な業務は国家に準ずる者に対するけん制と行使。国家直属の組織内に於ける監査役として日本中を飛び回る、とされている。


各地で起こる呪霊関連のトラブルには基本、高専から相応の術師が派遣されるが、要人や国家権力に近しい部分に触れるような話になれば相手側が術師の出自を選ぶ。より内密に、無駄なトラブルを招かないように話の通った大人を必要とするわけだ。


の職場は所謂『話の通った』組織であり『表に出ない事件』の解決にあたる。子供には任せられないような薄汚い事情の案件は存外転がっているのだ。


高専に通っていた頃は崇高な思いを胸に抱き、この力で弱きを守るのだと奮闘していたものだが、いざ社会に出ると中々思うようにいかない。予定の時間が5分過ぎたとグラスを投げて来る依頼者、それをさっさと始末しろ、と散々と暴虐の限りを尽くされ呪詛を吐き息絶える寸前の女を顎で指す依頼者。金をチラつかせ自身に便宜を図るよう迫る依頼者。


高専からこの組織に入るのは呪術師としてのステータスになる。本来であれば五条や夏油のような特級が入るべきなのだが、片や自由を好みもう一人は姿を消した。同期の七海が最も適役だと思われたのだが、彼は術師になる道を早々と諦め一般企業に就職した。 枠が埋まらず滑り込んだ。の就職はそんな形で決まった。


正直な所、自分でも無理をした就職だと重々承知の上だったが、弱小分家である実家の両親がこの話を耳にしいたく喜んだ為、断る事が出来なかった。それでも出来る限りの力で全うしようと挑んだ仕事に現在、忙殺されつつある。


の配属された部署は組織の中でも最も過酷な任務を負う、所謂『追い出し部屋』だった。御三家に近しい者や一級以上の術師でない者はまずこの『追い出し部屋』に配属される。ここで八割の新人は使い潰され半年程度で姿を消す。等級に合わない呪霊の任務に向かわされ重傷を負う者、四肢に欠損を負い二度と歩けなくなった者。全ては実力不足のせいとされ、組織の形態に異議を唱える者はいなかった。


そんな中、は奮闘した。幾度か大きな怪我を負い入院したものの、どうにか喰らいつき一年を終える。残されたのは背中を横断するような大きな傷と疲れ切った己だけだった。同期は皆辞めた。内、三人は死んだ。悲しむ暇などなかった。そういうものだろう、という空気が蔓延していた。


二年目に配属された部署は『前線部隊』と呼ばれていた。血の気の多い性格の術師ばかりで構成されており、女性は一人だけだった。がその部署に配属された理由は余りに単純で、話が出来る人間が一人欲しかったからだと説明された。


暴力組織や治安を乱しかねないと目される組織に立ち入り調査をする際、事務処理や先方とのやり取りをする。一旦足を踏み入れれば彼らは散々な真似をするので何より先に謝る事を覚えた。弱者を救う事など二の次で、とりあえず便宜を図り事を起こさないようにする。真偽の程は問わず力で抑え込む。


抱いていた志はこんなものだったのか、そう考える事が増えた。碌々呪霊も見えない官僚連中に顎で使われ、少しでもしくじろうものなら罵倒される。確かにこちらも命がけだ。少しのミスでこちらの命諸共吹き飛ぶ。


毎日がの精神を削り会社に泊まる事が増えた。新しい部署の血気盛んな同僚も確実に減っていく。こちらの原因は単純に死亡率の高さだった。毎日のニュースに載らない事件で仲間は一人、又一人と死んでいく。


呪術師として生きて行くという事はそういう事なのだと頭では理解っていたはずだ。特に報われる事無く、誰に褒められる事もない。只、己が身体と心だけを延々とすり減らしていく。では、それがなくなったら?すり減らすものがなくなってしまったらどうなる。食事も睡眠も満足できる質を保てなくなり自暴自棄な時間が続く。


そんな時、夏油と遭遇した。


場所は『ご挨拶』に行かされた先の高級料亭だった。組織に便宜を図ってくださる代議士の先生がそこにいるのだと言われ挨拶へ向かう。それがどういう意味を持つのか知っていた。職場のトイレで久々にじっと顔を見る。やつれた酷い顔だというのに、何の感傷も抱けなかった。


上から指示された通りに化粧をし料亭へ向かう。タクシーの中で七海からのLINEを受けた。週末に高専の同期と会う予定になっており、その最終確認だった。行くよ、と短いメッセージを投げる。すぐに既読がつき何事か返って来ていたが生憎すぐにタクシーは目的地に到着してしまった。スマホをバックに仕舞い領収書を切る。


目的地である料亭は都心の一等地に広大な敷地と共に古くから佇む。物々しい門を抜け庭園を暫く歩けば離れが見えた。憂鬱な気持ちでそこへ向かう。高専の人間には口が裂けても言えないのだが、この組織はこうして生贄を捧げる。権力者に対し相手の要求に見合うものを差し出す。今回の場合、それはだ。あのジジイは確かに好色な眼差しでこちらを見ていた。正直な所、最早それは初めてでもない。


最初は入って三ヵ月目の任務時だ。直属の上司に犯された。お前が弱いからだと言われ何故か押し黙ってしまった。お前が弱くなければ俺がお前を犯す事はなかった。その時に押し黙ってしまった結果が今だ。都合のいい、いう事を聞く女という肩書をつけられこうして好きなように使われている。どうやら心は随分前に壊れてしまったようで今更何も思わない。只、ひたすらに疲れていた。



「…失礼します」
「おお!待っていたよ」
「遅くなりまして―――――」



下げた頭を上げまず目に入って来たのは例のジジイと、そのはす向かいに座る夏油の姿だった。一瞬にして言葉を失う。袈裟姿の夏油がそこにはいた。夏油傑。離反し処刑対象となった男が何故ここにいる。


最善の対処法が定まらず動けないを見て、代議士が笑った。彼は知ってるだろう。はい、と頷く。



「彼は、我々の味方だ」
「いえ、あの」
「なあ、夏油君」



どういう繋がりなのかは分からないが代議士はそう言う。確か夏油は宗教法人を乗っ取ったと聞いた。それから繋がったのだろうか。出された食事に手を付ける気にもならず、上機嫌になった代議士の話も耳に入らない。笑っているのかいないのか表情の読めない顔でそこに座る夏油が気になりそれどころではない。


この男がその気になれば我々二人など瞬殺されるというのに、この代議士はそんな事も知らず能天気に講釈を垂れている。


夏油は代議士に次々にと酒を薦め、何時しか彼は酔い潰れてしまった。カラカラに乾いた刺身に視線を落とす。



「久しぶりだね、
「夏油、さん」
「まさかとは思ったが」



キミがそこに入るとは。



「あの」
「ああ、彼は隣の部屋で眠っているよ」
「!」
「キミもそこで眠るつもりだったんだろう、望んでいるのか否かは於いておいて」



夏油が煙草に火をつけた。袈裟姿の喫煙姿は酷くアンバランスだ。



「相談に乗るよ」
「犯罪者じゃないですか」
「キミは潔白かい」
「…」
「いつでも構わない」



好きに連絡してくれ、と名刺を渡される。某宗教団体の名が印字された名刺で肩書は教祖とあった。あれはもう朝まで起きないぜ、と言う夏油に連れられ料亭を後にする。


その代議士が死んだと知ったのは、それから三日後の事だった。も当然事情を聞かれたが、彼は眠ってしまい自分もそのまま帰ったと告げる。タクシーの運転手がを覚えており事なきを得た。どうやら料亭内に夏油の内通者がいたようで、彼があの日同席していた事実を知るのはだけとなった。夏油がそこにいた事は言わなかった。


代議士が死んだと聞いても心は僅かにも揺れず、感情が平坦になっていると思った。その日はそのままお開きとなり、は同期会の行われる創作居酒屋へ向かう。同期会といっても七海だけだ。七海とは半年に一度こうして顔を合わせている。彼も彼で激務だ。



「あなた、大分やつれましたね」
「そう?」
「向いてないんじゃないですか、その仕事」



顔を合わせる度に七海はそう言う。最初の頃はそんな事ないって、と交わせていたが最近は苦笑いで誤魔化すようになった。その事にも七海は気づいているだろう。



「何かあったんですか」
「別に、何も」
「そうですか」
「七海の方はどうなの」
「特に、何も」
「話、全然弾まないじゃん」
「そうですか?」
「まあ、今に始まった事じゃないけどさ」
「…」



押し黙ったに対し、そういえば、と七海が口を開いた。そういえばジョアン・ミロの個展がありますよ。あなた、お好きだったでしょう。最初すんなりと頭に入って来ず数秒経ってああ、と思い当たる。



「行きますか」
「え?」
「チケットならあります」



まったく手のつけられていない食事を見ながら七海は言う。


「気分転換でもしたらどうです、あなたそんなんじゃ死にますよ」



ありがとう、と反射的に返した。夏油と会った事は言えなかった。










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が夏油の携帯に連絡を寄越したのはそれから五日後の事だった。夏油は出なかったがすぐに折り返しかかってきた。直接会って話をしたいというの申し出に快く応えた夏油は、迎えを寄越すと言った。都庁周辺の駐車場に待ち合わせ車に乗り込む。


後部座席に座っていた夏油は相変わらずの表情でを迎え入れた。お台場からみなとみらいへ向かう車中は静かだ。夏油は話しかけて来ないがこちらを見ている。あの、とが口を開いた。運転席の後ろからゆっくりと仕切りが上がる。



「これで気兼ねなく話せるだろう?」
「…お気遣いどうも」
「どうしたんだい、



私を呼び出すなんて。



「殺したんですよね」
「…何の話かな」
「あの、代議士の話です」
「ああ、」



彼ね。と夏油は言った。亡くなったらしいね、ニュースで見たよ。私も酷く驚いているところさ、。夏油はさも驚いたという素振りでそう言う。はぐらかされている事は分かっていた。だからといってこの狭い車内だ、言及するつもりもない。夏油は窓に肩ひじを付きながら溜息を吐いた。



「あれは癖が悪いからね。あの時もいい見せ物があると言われていたんだ。まぁ、まさかキミが来るとは夢にも思わなかったが」



沈黙。



「キミの意思でやってるんじゃないだろう?」



そして又、沈黙だ。これまで誰にも話した事がなかった。というより話す事が出来なかった。意気込んで入った職場でまさか身体を売れと強要されるだなんて誰が考える。そうしてそれを受け入れただなんて誰に言える?


思えば入ってすぐに犯された時、あの時にここは辞めるべきだったのだ。そうして奴らには相応の処分が下されるべきだった。全ての決断に己が意思がなく、誰かの為に生きているからこうなるのだと知っていた。そんな事で辞めたのかと思われたくなく、そんな目に遭っているのかとも思われたくない。


田舎の両親はがこの組織に所属してようやく本家の敷地に足を踏み入れる事が許された。今更、後戻りは出来ない。これまで誰にも言う事が出来なかった全てを吐露し泣いた。



「私はもう駄目なんです、私にはもう何も出来ない」
「…キミが悪いんじゃない」
「何も選べない私が悪いんです」
「そんな事はないよ」



夏油はそう言いを抱き寄せる。車は丁度みなとみらいに差し掛かる。夏油は只、そこにいて慰めるようにの背に手を回していた。


それから三日に一度の頻度で夏油に『相談』をするようになった。それが正しく『相談』なのかは判断がつかない。夏油曰く、日がな似たような真似をしているので別に何と呼んでも構わないそうだ。の方からメールをすると、いつもの都庁周辺にある駐車場に例の車が迎えに来る。


ドライブがてらの『相談』の最中、夏油は決してに何かをするわけでもなく、只肩を抱き寄せて話を聞く。



「そうだね。キミは何も悪くない」



夏油は常にそう囁く。完全な肯定の言葉しか言わない。その事に気づいているが酷く甘美で抜け出せない。夏油の言葉は心に容易く侵入し浸透する。



「私はキミを大事に思っているんだ、可愛い後輩として、勇敢な呪術師としてね。そんなキミが消費されゆく様が辛くてかなわない。どうしたものかな」



車の窓から流れる光の粒を眺めている。この時間が永遠に続けばいいとさえ思い始めていた。










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七海と約束した個展の日は天候もよく、ターミナル駅で待ち合わせをした二人は美術館へと向かった。普段よりもずいぶん晴れやかな顔をしているを見て何かあったんですか、と七海が聞く。



「え?何が?」
「…」
「何もないけど?」



そう笑うを見て言及しない事にした。これまで彼女の顔をあんなにも曇らせていた何かがなくなったのだろう。それならそれで良い事だ。彼女が幸せであれば他はどうでもいい。


は不器用な女で、恐らく一級にはなれないだろう。元々今の仕事も向いていないはずだ。こちらとしてはいつ死ぬか分からないような環境に身を置くよりも、もっと彼女が心穏やかに暮らせる選択肢を提示したい。それはエゴなのだろうか。そこまではまだ理解出来ていない。


高専を卒業し半年に一度のペースで顔を合わせるは見る見るうちに覇気を失くしていった。彼女の職場の噂は常々聞いている。半民半官と言えど内情は天下り先に他ならない。国や大手企業が術師を手元に置くべく外部に設置した出先機関だ。それがどういう意味合いを持つかは知っていたのだろうか。



「これ、この『農園』って絵が好きでさ」
「待ち受けにしてましたよね」
「覚えてんの!?」
「珍しいなと思ったもので」
「青が綺麗でさ」



の実家は遠縁に禪院家の血を引く所謂弱小分家にあたる。両親は呪力も弱く本家の敷居を跨ぐ事さえ許されていなかったらしい。学生の頃はよく、京都校には行きたくないんですよね、と言っていた。


そんな弱小分家に舞い降りたのが呪力もあり術式も使えるだ。両親は殊の外喜びのサポートに全力を尽くした。彼女は彼女でそんな両親の期待に応えるべく努力を惜しまず今に至る。


彼女が出先機関に入ったのも両親の強い希望があったからだ。術師としてその機関に所属出来れば、本家にも顔向けが出来る。結果、今のところ両親は本家の敷居を跨ぐ事が出来ている。



「彼、ジョアン・ミロは『絵画の暗殺』を宣言したんですよ」
「?」
「従来の伝統的な絵画技法に批判的な態度を示したんです」



朗らかに笑うの笑顔に翳りが見え始めたのはすぐの事で、こちらも就職し暫くは色々と忙しかった為、酷く驚いた。見るからに無理をしている様子だし、元々あの機関の噂は知っている。半年で殆どの人間が辞める。完全にブラック企業なのだが、その肩書に囚われ手放す事が出来ない。でもそれは、一体誰の為に?



「若しかして、私の話と絡ませてる?」
「はい」
「そう簡単には辞められないよ」
「あなたの人生はあなたが決めるべきだと思いますが」
「七海だって知ってるでしょ、うちの話」
「あなた、誰の為に生きてるんですか」
「!」
「まあ、今すぐには無理でしょうけど」



もっと自分の為に生きた方がいいですよ。それと。



「次はいつにします?」
「え?」
「来週、空いてますか?」
「えっ!?」
「土曜とか」



思いがけず性急な話で驚いた。これは初めての展開だ。



「土曜が大丈夫なら金曜の夜はどうです?熟成肉のいい店が中目黒に出来たんですよ」
「中目とかデートみたいじゃない?」
「そうですけど」
「えぇ!?」
「何かおかしいですか?」



そもそも最初からそのつもりなんですが、と続ける七海を見上げ、今日のこれもデートだったの、と聞けば、そりゃそうでしょう、と呆れたように言われて驚いた。










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という話をしてからというもの、夏油の様子がおかしい。そもそも最初は彼の方からの様子を探って来た。どうしたんだい、。何かいい事でもあったのかい。何も考えずに先日の七海との一件を話したこちらが迂闊だったのだろうか。あらかた話を聞き終えた夏油はふうん、と言ったきり黙ってしまった。


思い当たる節がいまいち分からず狼狽えるに対し、わざとらしい大きな溜息を吐き口を開く。



「まぁ、別に私はキミのやる事に口出しするつもりはないんだけどね」



そう言ったきり見るからに機嫌の悪くなった夏油を見て、まさか、七海との話が原因なのか、と思うもそれは余りにも面倒だ。とりあえずこの場から逃げ出したいが生憎ここは首都高を走る車の中で、今すぐにどこかへ行く事も出来ない。それに機嫌を損ねたといっても夏油はの肩を抱き寄せているわけで、兎に角すぐに機嫌を伺うように話題を変えた。


暫くの間、夏油は窓の外を眺めていたが徐に、最近、私も困っている事があってね。キミさえよければ手を貸して欲しいんだけど。そう呟いた。夏油はまだこちらを見ない。



「…私に出来る事なら」
「キミにしか出来ないんだ」
「?」



夏油がようやくこちらを見た。



「頼まれてくれるかい?」



夏油から何かを頼まれる事は初めてで、確かにここまでやってもらっているのだから何かしなければならない、と思った。動機としてはそれだけだ。


の職場にはこれまでの押収品が一斉に保管されている倉庫がある。基本的にガラクタばかりが一時保管され、期限が来たら破棄する事になっているのだが、その中に夏油が狙う呪具があった。


一見すると只のガラクタに見えるそれは平城京の高僧が封印したとされ、傍から見る分には呪力が完全に封じられている。夏油から頼まれたのはそれの持ち出しだった。当然、発覚したら解雇では済まない。そんな事は重々承知だった。


そのタイミングは存外早く訪れた。一時保管の期限が訪れたのだ。数人の同僚と堂々と倉庫内に入り、破棄する振りをして持ち出した。罪悪感はなかった。どうせ破棄するものだし、同僚たちがそのガラクタを転売している事も知っていた。


から呪具を渡された夏油はそれはそれは大層喜んだ。こちらを抱き締めありがとうと呟く。不思議なほどに安堵していた。


そんな事があって数日後だ。が出勤すると職場が嫌に騒がしく何事かとフロアを見回す。明らかに高専の関係者と思わしき人物が紛れており嫌な予感がした。


何食わぬ顔でおはようございますと挨拶をしながら自席へ向かう。 その途中、小耳に挟んだ情報を纏めると『呪具の紛失が発覚した』らしい。一大事となっていた。当然誰もその呪具の事は知らない。


昨晩、高専側からそれが極めて強力な呪具であり、翌早朝回収に向かうという通達が来て騒動に発展した。マズイ、と思うも証拠はないはずだ。倉庫内には監視カメラはない。


高専から回収に来たのはあの五条で、彼はを見つけ、よお、と声をかけてきた。気取られてはならないと腹を括る。



「お前ここにいたんだっけ?」
「お久しぶりです、五条さん」
「てかさー押収品なくすとかどうなってんの?ここ」
「私、今来たばかりで話がよくわかってないんですけど」
「特級呪具の紛失だよ、ありえねー!解体しちゃえよなこんなとこ」



五条は相変わらず周りの目など一切気にせずデカい声でそう言う。



「あ、そういや七海と会ってんの?」
「えっ?」
「あいつお前の事好きらしーよ」
「!」
「あれ?これ言っちゃダメだったっけ?」



聞かなかった事にしといて、と続け文句を吐き捨てながら五条は消えた。あの様子では只ではすまないだろう。今になって夏油に渡した呪具がどうなったのかが気になりだすが今更だ。既にあれは彼の手の内にある。今夜にでも夏油に連絡を取ろうか。いや、それは余りにも性急過ぎるだろうか。デスクで悶々と考えていれば肩を叩かれビクリと驚いた。



「久しぶり」
「あ…」



一難去って又一難だ。難を逃れたかと思うも、肩を叩いて来た男の顔を見て言葉を失う。以前を犯した上役がそこにいた。何故この男が。そう思うも動揺を隠すだけで精一杯だ。


この男はこの出先機関に僅かな間出向してきていた男で、現在は本来の所属である公安に戻っているはずだ。それが、何故。酷く馴れ馴れしく身体に触れて来るこの男がを気に入っていたのは周知の事実で、上司はに男への動向を命じた。断る術は、なかった。


どうやら五条が来るという事で事前に顔を出していたらしい。彼は全ての場所で評判が悪い。


男はそのままタクシーに乗り五条の悪口を散々言いながらホテルへ向かった。タクシーの中で身体を触って来る男の手をどうにか防ぎながら二度目は無理だと思う。これはもう生理的に無理だ。それでも男は当たり前の顔をして進む。あの時の光景が浮かびエレベーターの前で足が竦んだ。あの、余りにも無力で情けない姿を二度見てしまえば立ち直れないだろう。


何やってんだよ、そういう男に対し、勘弁してください、と呟く。



「呪具、お前が盗んだろ」
「…」
「それにお前、最近、夏油傑と会ってるな」



腕を掴まれエレベーターに連れ込まれる。男は強い力でこちらの腕を掴み離さない。下手な事を言えず残された僅かな時間で最善の返答を導き出したいが無理だ。言葉一つ纏まらない。何も出て来ない。


頭の中では夏油の顔が過る。 夏油が公安にマークされている事は特に以外でも何でもない。あれだけの事を起こした男だ。問題はこの男が薄汚い欲情を持ってこちらに接して来る事だけで、何も言えなくなったを見下ろしそのまま部屋へ向かった。


下手な事を言えば自分と夏油の首を絞めかねない。だけれど、黙ってこの男の好きにさせたところで同じではないか。この男は今のところ秘密を二つ握っている。証拠の有無は意味がない。こんな時どうしたらいい。弱者を守れとは言われていたが、身を護る術など誰も教えてはくれなかった。


男は何を話しかけても反応を見せないに痺れを切らしベットに押し倒した。やめて、と声をあげ両手で男の身体を押し返す。馬乗りになった男は両足での身体を挟み片手でこちらを押し返す彼女の両腕を掴んだ。



「お前も馬鹿な女だな、あんな男の口車に乗って」
「離して!!」
「あいつがお前に近づいたのは、あの呪具を手に入れる為だ」
「やめ」
「夏油があの呪具を狙っているって情報はとっくに掴んでたんだよ、こっちは。まさかお前が絡んでるとはね」



男の手は無作法にこの身を弄る。又か。又、私はこの男に身も心も蹂躙されるのか。あの時は悲鳴一つ上げる事が出来ず、されるがまま犯されたが見える景色は今と同じだった。男を見上げながら思い出す。


こうしてこの男越しに見える天井。男の言葉。お前が弱いからこうなったんだ。私が弱いからこうして食い物にされるのだろうか。こんな、呪力もない男に好きに弄ばれそうして又、いつもの暮らしに戻るのか。何事もなかったような顔をして。


しかし盗んだ事がバレている以上、解雇は免れないのではないか。前回と違い今回は明確に弱味を握られている。この一回だけで終わるわけがない。この男に死ぬまで食い物にされるのか。


男の指が濡れていない膣に差し込まれうう、と呻いた。実家の両親の顔。夏油。夏油の顔―――――


気づいた時には男は血の海の中にいた。つい先刻まで自身が押し倒されていたベッドの中で明らかに息絶えている。首はほぼ取れかけていた。両腕と言わず全身に返り血を浴びたままぼんやりと携帯を手に取る。



「…ッ」



手に取ってすぐに七海からの着信があった。そう言えば今日は七海との約束の日だった。荒い呼吸はまるで整えられず掌の上で震え続ける携帯を眺めていれば涙が込み上げてくる。七海との約束は果たせそうにない。思えばあいつとの約束は反故にしてばかりだ。


震える指先で電話をかける。相手は夏油――――― 夏油はすぐに出た。


彼のもしもし、より先に言葉が溢れる。泣きながら喋っている為、自分でも声が震えていると分かった。



「最初からそのつもりだったんですね」
「どうしたんだい、
「あなたは最初から私を利用するつもりで」
「何があった」



とりとめのない形になったが要点だけは伝える事が出来ただろう。呪具の持ち出しが発覚した事、高専が話に絡んで来ているという事。公安が夏油を張っていたという事。全てがバレていて、私は今まさにその男を殺してしまったという事。


一部始終を説明したに対し、夏油はすぐに向かうから心配するなと告げた。










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夏油は確かにすぐに来た。ベットの上で死んでいる男を見下ろし、猿が、と吐き捨て連れて来た教団関係者に後処理を指示する。



はソファーに座り膝を抱えていた。



「…初めて人を殺したのかい、



黙って頷く。



「私の為に?」
「自分の為に殺したんです、別に夏油さんの為では」
「いいや、その猿が私を監視している事は知っていたんだ。どの道始末するつもりではいたんだよ」



夏油が横に腰掛けた。大きな掌が肩を掴み引き寄せる。



「アレは気にしなくていい。どうにでもなる」
「私、人一人殺したんですよ」
「猿一匹消えたところで何ら問題ないさ」
「猿って、それ」



夏油が連れて来た教団関係者は事件の証拠を完璧に隠蔽していた。既に遺体は回収されベットも新しいものと交換された。


夏油は言う。あの男は執拗に私を追っていてね。呪力もない猿の癖に。夏油の言葉は単調で何の感情も籠っていない。あれを殺しても何の呵責も抱かなくていい。いいね。耳側でそう囁く。


つい先刻まで室内に充満していた濃い血潮の匂いは失せ、ここで人が殺されていたとは誰も思いもしないだろう。だけれど私は実際にここであの男を殺した。


抵抗するを数回平手打ちした男は、それでもこちらの抵抗が収まらない事に腹を立て片手で首を絞めて来た。挿れてる時に絞めると気持ちいいんだよな、だったか。首を絞めながらもう片方の手でベルトを外しの右足を持ち上げた。


男の指が頸動脈を強く押さえ酸欠状態が続く。 意識が途切れかけた瞬間に理性は失せた。常時を押さえ付けていた制約は効力を失い莫大な量の負のエネルギーが一気に溢れ出す。意識が飛んでいたのはほんの僅かな間だった。しかし、その僅かな間に男は死んだ。それだけが事実だ。



「お前の事はよく知っているよ、。私はお前を理解している」



お前は優しい女だ。優しく厳しく、そうして脆い。高専にいた頃からそうだったろう。お前のその薄い背には支えきれない程の重圧が常にのしかかっている。私も、悟もお前の事を案じていたものさ。両腕でを抱き締めている夏油は背中をポンポン、と叩き甘言を囁き続けた。


30分程そうしていただろうか。話をし、少し落ち着いてきた頃合いで血潮を落として来なさいとをシャワーへ向かわせる。そのままソファーから立ち上がり室内を一望した。室内には血の一滴も残っていない。



「ご苦労」



夏油が言う。



「仕上げをしよう」



続けて夏油は、そう言いパン、と手を叩いた。










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シャワーから出たは室内に誰もいない事に気づいた。室内を忙しなく片づけていた教団関係者の姿は一切なく、新しく挿げ替えられたベットの上に夏油が座っていた。部屋の明かりは消されベット横の間接照明だけがぼんやりと彼を照らしている。数秒の間目が合い、タオルドライしていた手を止める。


これはそういう事なのか?回らない頭で考える。これはそういう事なのだろうか。


微動だにしないを見た夏油は一瞬困った様に笑い、こちらへおいで、と両手を広げた。ああ、やはりこれはそういう事のようだ。濡れた髪のままふらふらと近づく。



「可愛らしいね、は。私がそんなに大事かな」



全てを投げ出すくらいに。



「もう、何もないんです。私には」
「そんな事はないさ」
「もう、どうしたらいいのかさえ分からない」



七海には言えない。殺した直後の着信を見た瞬間にそう思った。こんな事言える訳がない。こんな事も、こんな事になってしまった事情も全てだ。情けなくて己が余りにも弱くて下らなくて言えない。


自分で自分の首を絞める泥沼状態だと分かっている。今に始まったわけじゃない。ずっと、一寸先は闇だった。



「そうだね、
「…」
「だから私が共犯者になったんだ」



私に委ねなさい、と夏油は言う。何もかも、身も心も全てか。こうしてお前は心の隙間に入り込むのか。夏油は呪具を手に入れる為にこちらを利用したのだろうか。その為に私に近づいた?頭の中はごちゃごちゃとやかましい。


私はどこで間違ったのだろうか。今更、何一つ取り返しはつかないというのにそれは余りにもずうずうしい疑問か。


伸ばされた夏油の手を取った。後戻りは出来ないと分かっていた。


夏油の手は大きく丁寧に触れた。これを自らが望んでいるのかそうでないのかは分からない。元々、望まないセックスも受け入れる事が出来る身体だ。自分のそういう判断は一切信用出来ない。男に絞められた痕が残る首筋に口付けを落とし慈しむようにこの身を抱く。


気持ちの上では委ねているのだが自分でも触れる事の出来ない深層心理の部分では酷く緊張しているようで中々濡れず焦った。気も漫ろだと気づかれないよう喘ぎ声にも留意して万全に振る舞っているはずだが落ち着かない。一切集中出来ないのだ。夏油に知れているだろうか。


下手に動けず夏油に身体だけ委ねたは挿入しやすいように足を開いた。



「…なぁ、。常々言うだろう」
「なに」
「最も困っている時に差し伸べられた手には縋るな。弱った奴にはロクな輩が集まらない。奴らは弱っている人間を探すのが好きでね。見つけては容易く手を差し伸べる」



夏油はこちらを見下ろしている。



「唯一の例外は元々お前に好意を持っている相手だよ。そいつの手は掴むべきだ。お前を昔から見ているような、そんな純情な奴の手は掴まなければならない。だけど―――――」



が夏油の腕を掴んだ。やめて、なのか、何故、なのか。何事か言いかける。



「そういう奴の手ほど何故か人は掴めない」
「…!」



一気に挿入され息が止まった。反射的に目を閉じれば何故か七海の事が脳裏を過ぎる。内臓を押し上げられるような強烈な感覚に声が抑えられなくなった。唇のすぐそこには夏油の顔が迫っている。



「七海の手を掴むべきだったな。私じゃなくて」
「今更、なにを、」
「かわいそうに」



やめて、と言うが夏油は動きを止めない。暴力的に与えられる感触から逃れようと身を捩るが上から押さえつけられた。



「勘違いするなよ、
「あ」
「お前じゃない」
「っつ、」
「あいつが可哀想なんだよ」



分かっている。そんな事は言われなくても分かっているのだ。両手で顔を覆い涙を隠した。やめて、やめてよ。うわ言のようにそう繰り返すを夏油は最後までじっくりと犯したし、だって途中からは泣いているのか鳴いているのか分からなくなった。


もう、全てが交じり合い混ざり合い何も分からない。どうして私は今、夏油に抱かれているのだろうか。


明け方近くに目が覚め身体を起こす。素っ裸の己を見てああ、そうか。そういえば夏油と寝たんだったと思い返す。気持ちよさとは相反し、これまで史上記憶に残る嫌なセックスだった。


隣には夏油が眠っている。起こさないようにゆっくりベットから降り、ソファー近くに置いていたバックから携帯を取り出した。携帯には七海からの着信とメールが残されていた。



『何かあったんですか?』
『連絡ください』
『いつでもいいので』



携帯の電源を落とす。ふと気配を感じベットの方に視線を向ける。夏油は起き上がり煙草を吸っていた。



「実家に行くなら同行しようか?」
「どんな気持ちでした」
「キミと私とじゃ条件が違うからね、一概には言えないさ」
「うちは、弱小分家なんです。父も母も呪力が弱くて、彼らにとっては私が救いの神だった」
「…」
「私がこんな事件を起こしたなんて知れれば何れ死ぬ事になる」



だったら、楽にしてあげなければね。夏油がそう言う。親殺しは重罪ですよ。がそう言えば、それ以外に救う方法がないだろう。大丈夫だ、私がついているよ。それに。



「私たちは共犯者だろう?」



そう笑い囁くのだ。