ペットネームあげる



  終電間近の新宿駅を五条と一緒に駆け抜ける。終電ギリギリになる予定ではなかったのだけれど、例の如くマイペースの化身である五条がやれあの店に寄るだとかあっちに行くだとかこっちに行くだとか散々を振り回しこんな時間だ。


早く走ってよと言うの隣、ヘラヘラと笑いながら余裕の素振りで走る五条に腹を立てながらホームへと続く階段を駆け上る。


途中途中に潰れ蹲る人の姿を横目で見ながら、別れを惜しむ恋人同士を見送り掴みあいのケンカをする若い男達を追い越す。その刹那急ぐ気持ちとは裏腹に足が止まった。


しまった、と思うが遅い。先に上っていた五条はそんな一瞬の隙さえも許さずこちらを見下ろしている。


あーあ。のせいで終電行っちゃったよ。五条の声は電車がホームに入って来る音と同時に発され、階段を駆け上ろうとしたの身体を彼の腕が阻んだ。


終電から降りて来る疎らな人々の怪訝な表情もものともせず五条は掴んだ腕を離さない。



「離してよ」
「お前、まだそんな事やってんの」
「終電、行っちゃうんだけど」
「いーよ、そんなの」
「こっちはよくないんだけど」
「こんなじゃ帰れねーだろ」
「うざ」



こんな自分にはそもそもうんざりしているのだし、どうにか出来るのであればとっくにどうにかしている。


夏油のつけていた香水は特に珍しいものでもなく同世代の男性が10人集まれば3人は使っているようなメジャーな代物だ。だからそれが香ったところで夏油がそこにいるわけではないのだと頭では理解っているはずなのに身体が反応してしまう。


つい先刻もそれで、恐らくケンカをしていた男達の中に使っている人がいたのだろう。それでもこの身体は歩みを止めた。まるでそこに夏油がいたとでもいうように。五条はそれを許さない。



「うぜーのはお前だろ」
「痛いって、離してよ」
「こっち来いよ」
「ヤダって」
「もう終電ねーだろ」
「待ってるよ、ホームで」
「バカじゃん」



これが理由の言い合いにはもう飽き飽きで、こちらは好きでそうしているわけでもないのに五条は絶対に許さないし語尾強めに断罪して来る。


て事はお前まだ傑の事が好きなんじゃねーの。だってそうじゃねーの。そうじゃなかったらわざわざバカみてーに立ち止まったりしないだろ。マジでムカつくんだけど。俺、そういうのマジでムカつくんだけど。いや、これって別に俺だけじゃなくね。お前マジで最低な真似してるからね。じゃあ何で俺と付き合ってんの。


毎度同じやり取りの繰り返しだ。じゃあ何で俺と付き合ってんの。五条は必ずそう言う。逆にこちらが聞きたい。じゃあ何で私と付き合ってるの。



「どこ行くの」
「とりあえず駅から出る」
「それで?」
「ホテル」
「嫌なんだけど」
「ネカフェとかファミレスとか俺、無理」



右腕はずっと掴まれたままで先を歩く五条はこちらを連行するように引っ張る。五条との付き合いも酷く曖昧に始まった。夏油がいなくなって暫く経った頃に何となく一度セックスをして、それから数回寝て、どちらからともなく付き合っているような雰囲気になった。


だからこれは、若しかしたらまだ付き合っていないのかも知れない。何せ相手はあの五条悟なのだし、これまでもこれからも、今現在でさえ何を考えているのかは分からない。


そう思っていたのだが、言い争いの時に『何で俺と付き合ってんの』そう言ってくるところを見るに彼の中では付き合っているという認識らしい。そうなんだ、と単純に驚いた。この温度差が軋轢を生むのだと知っている。五条は歌舞伎町方面へズカズカと歩いている。



「いや、無理だって」
「何が」
「そもそも五条、ラブホ無理じゃん」
「ラブホとか行かねーよ」
「どこに行ってんの」
「タクシー拾うんだよ」
「高専まで戻るの?」
「バカじゃん、西新宿に行くんだよ」



終電の終わった新宿の街はそれなりに栄えていて、あちらこちらに酒に浮かされた人々が歩いている。五条はこちらの腕を掴んだまま離さない。ちょっと、と言いかけた瞬間、又あの香りが鼻腔を擽りしまった、と思うより先に足が止まった。


今回は分かりやすく、こちらに声をかけようとしたキャッチがつけていたようで、一瞬だけイラついた表情を見せた五条はキャッチをいなしそのまま大通りへ抜けずすぐそこにある雑居ビルの間に入って行った。掴まれた腕は更に力が込められ実際、酷く痛んだ。



「お前さ!」
「痛いって!」
「何でもいいわけ!?」



夏油に似ても似つかないあんな男でも反応してしまう私と言う女に腹が立っているのだろう。そんなのは私だって同じだ。姿かたちも声もその気配さえ何一つ同じでないのに香り一つでこの身体が錯覚してしまう。その都度死にたくなる程の損失感を抱く。本当に、私一人バカみたいに。



「何かさ、あの匂いさえしてりゃ誰でもいいんじゃねーの」 「そんな事ないし」
「じゃあさ、万が一、それが傑だったらどうすんのお前」
「それは」
「何もかもかなぐり捨ててついてくの?」
「…」
「俺はそーゆー事を言ってんだけど」



こうして五条はこちらの心を踏み抜き行き場さえ失くす。もし、万が一振り返った先に夏油がいたら私はどうするだろう。その先を知りたくなく考えないようにしている。


だから俺はお前を離さないんだよ。俺はお前を離さない。お前は離さない。


パッと離された腕には五条の指の形がくっきりと残っていて、まるで痣の様だ。気づけば涙が一滴、二滴と零れていて指先で拭う。そんな姿を見ても五条は何も言わず又、の腕を掴んだ。振り払う気にもなれずそのまま歩く。


新宿の街は変わらず騒がしく二人の姿を掻き消していく。又どこからかあの香りが、した。