「喪ってみようよ、」



   傑がいなくなってしまってもう五年が経過する。いなくなってしまった、というのは状態の話だ。彼は呪術師としての意義を見出せなくなり姿を消してしまった。


彼に心惹かれていたは手酷い失恋の傷を誰にも見せる事無くどうにか耐えた。悟も硝子も、そうして傑も其々の志を抱き道を選んだ。


高専の人間と傑の話をしたのは彼が消えて半年くらい経過した頃の事で相手は後輩の七海だった。先輩はまだ夏油さんの事が好きなんですか。出し抜けにそう言われ返す言葉もなかった。


確かが一人で向かった任務の後始末に来てくれたのが七海で、相変わらず集中力に欠ける戦い方をしてしまい無駄な怪我を負ったを見つけ駆け寄って来た。


一度も勝つ事が出来なかった夏油との手合わせを思い出す。は注意力散漫だから心配だね。どれだけ序盤優勢でも絶対に綻びが出る。別に相手が傑だったから、というわけではないはずだ。


見た目より逆上型で頭に血が上り易く、その結果防御がおろそかになる。何て杜撰な頭の悪い戦い方なのだと自分でも分かっている。身の丈にも合っていない。硝子に言わせれば「死にたいのか」であり悟に言わせれば「自分で死ぬ事の出来ないバカ」らしい。二人とも私の事をよく理解している。


一人で立ち上がる事も出来ないに手を貸した七海は前触れもなくそう口を開き、こちらの心をざわつかせた。急に何。何の話?血の味がする唾液を吐き出す。傑がいなくなってから彼の話をしたのは初めてだった。七海はいつもの彼の口調でポツリポツリと紡ぐ。



「好きでしたよね」
「どうして」
「いつも見てた」
「そうかな」
「あなたは彼を」



私はあなたを。



「…」



そうなの、と返した。それ以上言葉を繋げる気力もなく、可愛い後輩を労う事も出来ず只そう呟く。これまで誰にも言った事のなかった秘密が急に暴かれたような気がして言い様のない感情に襲われたからだ。


七海の肩を借りようやく歩く事の出来たこの身体はもう下らない、要らない。上手く取り繕う事も出来ず涙を流す脆弱な心も要らない。


すいません、と七海は言った。何が、そう返す。別に謝る必要なんて、あんたが謝る必要なんてどこにもない。何事か言いたげな七海はそれでもやはり、すいません、と呟き黙ってを高専まで連れて帰った。帰りの車の中では泣いたの顔が隠れる様に上着をかけた。隣り合わせた手のひらは繋がれていた。


その日を契機に七海からの接触は爆発的に増えた。流石にも好意を抱かれているのだと気づく程には増えた。後輩と付き合うつもりは毛頭なく、それでも十代後半の若い心は儚く揺れる。結局、七海とは三年程付き合い別れた。


社会人になった七海と呪術師を続けるとではライフスタイルも合わず、そもそもこちらに呪術師を辞めて欲しがった彼との小さな諍いが絶えなかった。七海は単純に、死んで欲しくなかったのだと思う。会うたびに傷を増やすを不機嫌そうに見つめ、誰の為の傷なのかと問う。


最後にはお似合いの終末を迎える。とりあえず悟と硝子に報告したところ、唯一結婚とかしそうだったのに、と二人は酷く残念そうだった。結婚式というものに出たかったらしい。


それから更に三年が経過した今、新たな出会いがありいよいと来週に結婚式を控えた。相手は呪術師を家族に持つ一般の男性で、呪具を扱う仕事をしている。


三年の間に七海とは所謂元カレから友達のような曖昧な関係に落ち着く事が出来た。彼は彼で半年程前に新しい彼女が出来たと報告して来た。皆、其々に新たな道を歩む。



「どこに行くの?こんな時間に」
「ちょっと、コンビニ」
「俺も一緒に行こうか?」
「ううん、大丈夫」



来週に式を控え心は穏やかだ。結婚式で流すスライドを整理している時に高専時代を思い出してしまったくらいで、それ以外はどうって事ない。数年振りに見た夏油は屈託のない笑顔で微笑んでいて、やはりどうしようもない気持ちにさせる。


コンビニに行くと言って出掛けたは最寄りのコンビニを三つ通り越し河川敷を道なりに進む。傑がいなくなってすぐに彼の携帯に電話をかけた。彼の携帯はすぐに解約されていて繋がる事はなかった。


それでも傑を思い出す度に繋がらない番号に発信する日々が続いた。大体こうしてそれは真夜中で、一人で部屋の中に閉じこもる事も出来ず外へ飛び出した時だ。何度かけても何度かけても当然傑に繋がる事はない。もう傑の声も忘れた。



「…」



悟の席はノンアルで、硝子は地酒が飲みたいって言ってたな。建人は二次会からで、彼女を連れて来るって言ってたっけ。余計な考えを起こさぬよう色々と考えてみるのに駄目だ。もう誤魔化す事が出来ない。


こんな真似はよくない。分かっているのにアドレスから番号を削除できない自分が悪いと知ってる。いや、嘘だ。削除したところで11桁の番号は覚えている。忘れる事が出来ない。スマホを取り出し電話帳を開く。



『傑』



発信を押し耳に充てた。すぐに例のアナウンスが流れるはずだ。『おかけになった電話番号は現在使われておりません、番号を確認しもう一度おかけ直しください』こんな事はもう止めなくてはならない。それなのに。


スピーカーからは呼び出し音が聞こえ、夜の道で立ち尽くす。いいや、まさか。そんな道理がない。きっと誰かがこの番号を新しく契約したに違いない。だったら悪いな、こんな時間に電話を鳴らすなんてよくない真似だ。出ないでくれと強く願う。だったら最初からかけなければいいのに。留守電にも変わらないまま終話ボタンを押す。


ざあっと大きな風が吹き道の真ん中で我に返った。思ったよりも遠くまで来ている。明日も式の打ち合わせがある。早く帰らなければ―――――


そう思った瞬間、スマホが鳴った。帰りの遅いを心配した彼氏からの着信かと思うが違う。



『傑』



いいや、違う。夏油の使っていた番号を新しく取得した人からの折り返しだ。きっとそうに違いない。申し訳ない事をした。謝ってすぐに切ろう。そんな電話、出なければいいのに。


通話ボタンを押し耳に充てる。目の前の道は遥か彼方まで闇に包まれ先は見えない。河川敷は黒く黒く、僅かに水の音だけが聞こえる。私は来週、式を控えていて、傑の声なんてとっくに忘れている。はずだったの、に。