胸元に薔薇



 この数日むやみやたらとイラつく事が多かった。何が、と言われればはっきり答える事が出来ない。何となくだ。何となく只イライラとしていた。普段であれば気にもならない些細な一言がやけに癇に障り部屋を飛び出したのだ。待ちなさい、という夏油の声を背に部屋を飛び出した菜々子を追いかける美々子というよくある構図だ。


流石に小学校も高学年の年齢ともなると対応も一筋縄ではいかなくなる。所謂前思春期の育てにくさは尋常でない。頭ごなしに言う事を聞かせようとは思わないのだが間違っているところは指摘し改善させなければならない。只、それが如何せん非常に難しく対応に手を焼いているところだ。菜々子はこうなると手が付けられなくなる。だから夏油もそのままにして置いたわけだ。美々子がついているからそうバカな真似はしないだろうと考えていた。


部屋を飛び出した菜々子はそのまま駅の改札をすり抜け、ドアの閉まりかけた電車に乗り込んだ。ふと隣を見れば息の上がり切った美々子がおり驚く。あんたこんなとこで何してんの。そう聞けば、追いかけて来たんだよ、と恨めしそうに言われた。




「もう今日は絶対家に帰らないから!」
「えぇ~帰ろうよぉ」
「ヤダ!」
「パパ心配してるって」
「心配したらいーんだよ!」
「えぇ~~」




プチ家出を決行する菜々子の隣、絶対嫌なんだけど、と呟く美々子を乗せ電車は渋谷へと向かった。夕方から夜に差し掛かる最も人通りの増える時間帯だ。二人離れ離れにならないように手を繋いだまま改札へと向かう。どこに行くわけでもなく行く宛もない。夜の渋谷できょろきょろと物珍しそうに辺りを見回す子供二人の姿は目立った。


右も左も分からない二人は知らず知らずの内に道玄坂方面へ向かっており、今まさに妙な奴らに絡まれかけている。少し前から二人をつけていた男がどうやら仲間を呼んだらしい。こんなところで何してるの。迷子かな?にやついた男達が話しかけて来た。とりあえず無視するも、奴らは腕を掴んで来る。うざったい。そう吐き捨て駆け出すが捕まり路地裏に連れ込まれた。行き止まりの壁に押し付けられる。


子供がこんな時間にうろついてちゃ駄目だよ。お父さんとお母さんに怒られちゃうぞ。ベタベタと身体を触りながらそう囁く男達を殺そうとしたその時だ。背後の壁が動きそのまま中に引きずり込まれた。思ってもみなかった展開に驚く。あの男達から追われた時よりも驚いた。



「あんたら、何?」
「は?」
「あんたこそ何」



壁だと思っていた場所は扉だったらしい。室内から見れば成程、きちんとした扉になっておりその隣にマジックミラーになっている丸い窓が開いていた。二人を引きずり込んだのは一人の女で、大きくカールした明るい巻き髪を後ろに緩く結んでいる。Tシャツにダメージジーンズというラフな格好だ。男達は外からガンガンと扉を叩いていたが、ボソボソと話声が聞こえた後に消えた。


彼女は携帯を片手におかしいな、と呟いている。明らかに警戒している美々子とは対照的に、菜々子はこの室内に心奪われていた。ショッキングピンクの照明に照らされた室内は外観からは想像もつかないほどキレイにリフォームされている。どうやらここは道玄坂のホテルの一室らしい。部屋の真ん中には古めかしい丸いベットが鎮座しており、それを囲む様に可愛いが至る所に敷き詰められていた。星屑に似たラメ、サイバーパンク風の置物。まるで女の子の好きを凝縮したような室内だ。壁一面には可愛くメイクした女の子達のポラロイド写真がこれでもかと貼られている。



「見た感じ金に困ってるわけでもなさそうだけど、ここで商売したいの?」
「は?何言ってんの?」
「違うの?本気の迷子って事?」



勘弁してよね、と言った彼女は溜息を吐きながらこちらを見た。迷子か、だったら予定の子は飛んだのかな。一人そう呟きながらレトロな水色の冷蔵庫を開ける。



「名前は?」
「あたしは菜々子、こっちは美々子」
「そっちは」

「喉乾いてる?」
「いや…」
「乾いてる!」



の問いかけに否定の言葉を返しかけた美々子の声を菜々子が掻き消す。 は冷蔵庫から7Upを二つ取り出した。そのまま真っ赤なレザーのエッグチェアに座り煙草に火をつける。



「ここさ、援デリの事務所なの。言っても分かんないだろーけど」
「援デリって何」
「ガキはまだ知らなくていいよ」



はその『援デリ』の運営をしているらしい。話した感じさっぱりとした性格の女だ。これまでの菜々子達の世界にはいなかった人種になる。美々子は を警戒しているが、それとは対照的に菜々子はまずこの部屋が気に入ったらしい。パパが心配してるから帰ろうよ、と言う美々子に対し少しくらい心配させた方がいいんだよ!と譲らない。



「も~~本当ヤダぁ」
「あんたここに住んでんの?」
「そうだけど」
「泊めてよ」
「ちょっと!何言ってんの菜々子!」
「別にいーけど、始発で帰んなよ」
「やったー!」



菜々子はベットに飛び乗りはしゃいでいる。 はまったく詮索してこなかった。










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翌朝、始発の時間帯に合わせて は二人を渋谷駅まで送った。ここら辺は治安がよくないから来ない方がいいよ。彼女はそう言い二人を見送ったが、それから菜々子は の元に入り浸るようになった。例の路地裏に向かいバンバンと壁を叩く。



「…来るなって言ったでしょ」
「遊びに来ちゃった」
「遊ぶ場所じゃないのよ」
「いーじゃん、入れてよ!」



露骨に迷惑そうな を見ても一切引かない菜々子はズカズカと室内に入り込む。元々この部屋は女の子の待機や面接で使う為に作った。二つの部屋を打ち抜き片方を仕事用に、もう片方をプライベート用で使っている。


このホテルは元々違法な営業を目的に作られた。表向きはラブホテルとして運営しているが、常に数部屋は利用中であり、それらが我々の仕事の現場だ。反社会的な人々を母体に下っ端が出会い系で客を捕まえ、 が抱える女の子達がここで仕事をする。働く女の子は基本未成年。故の援デリだ。



「今日はあんた一人なの?」
「美々子は行かないって」
「頭いいじゃん、あっちのが」
「おりこーさんなの、美々子は」
「あんたは違うの?」
「そーなの!」



大方、親と喧嘩して飛び出して来たのだろうと前回の段階で気づいている。この年頃の娘は異性の親に対し反感を持ち出すし自我の芽生えも著しい。正直な所 の元に集まる女の子の中にも少なくない。彼女たちは其々に何かしらの事情を抱えその身を切り売りする。例に漏れず菜々子も の仕事に興味を持ったらしい。当たり障りのない事を返し様子を見る。



「あたしもやってみよーかな」
「やめときなよ、あんた殺しちゃうでしょ」
「確かに」
「殺しちゃったら金になんないからさ」
「美々子の方がウケいいよね」
「まーね」
「でも殺すじゃん」
「確かに」



は携帯を触りながら菜々子の話に付き合っている。彼女曰く携帯がこの仕事の命綱らしい。確かに数分間隔でメールを受信している。メールの返信をしながらも は菜々子の話をきちんと聞いているようで、こちらも嘘みたいに早く文字を打つ彼女の指先を見つめてしまう。



「あんた遊びに来てもいいけどさ、家には帰んなよ」
「えぇ~」
「遊びに来たいんだったら約束して」
「う~~分かったよぉ」
「はい、約束」



指きりげんまんね、と言い が小指を差し出す。 は仕事柄他人と接する事に慣れているようで、会って二度目の菜々子にも酷く親し気だ。ちょっと年の離れたお姉さんのようで菜々子も無邪気に甘えてしまう。



「変な客とかいないの?あたし殺してあげよっか」
「だーから殺しちゃ駄目なんだって」
「何でー?」
「捕まっちゃうじゃん」



あの時、菜々子と美々子は確実にあの男達を殺すつもりだった。別に造作もない。恐らく はその時の殺意に気づいているのだ。だからこうして容易く『殺す』『殺さない』という言葉が口に出る。それは別にいい。菜々子も変に隠さなくて済むし気が楽だ。だけれど気になる。見た所、特に呪力のない只の人間なのに、 はどうして気づいたのだろう。










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菜々子はどうした、と夏油が気づいたのは夕方に差し掛かる時間帯の事だった。確か朝ごはんの時はいたはずだし、お昼は一緒に食べていないがキッチンを見るに食器は二人分出ている。という事は菜々子と美々子二人で食べたのだろう。


リビングのソファーに座り雑誌を読んでいる美々子に「菜々子はどうした?」と聞けども「知らない」としか答えない。という事はだ。何か隠しているという事だ。ソファーに座り美々子の隣でもう一度聞く。答えない。もう一度、もう一度。「知らない」の一点張りだった美々子は明らかに怪しく、途中から雑誌で顔を隠してしまった。嘘の吐けない子だ。10回目の「知らない」は言えず、ようやく「渋谷にいる」と小さな声で答えた。



「どうして渋谷にいるんだい?」
「…パパ、怒るから言わない」
「怒らないから言ってごらん?」
「ヤダ」
「私が怒った事があるかい?」
「あるもん」



押し問答の末、美々子はようやく の話を口にした。この前菜々子が怒って出てった時あったでしょ、その時に助けてくれた人の事が凄い気に入ったみたいでその人のとこにいる。夏油の動きが一瞬止まった。



「ほら、やっぱ怒ったじゃん」
「まさか、そんな。私が怒るわけがないだろう」



夏油は笑顔のまま、ゆっくりと立ち上がりベランダへ向かった。携帯で誰かに電話をかけているようだ。結構な剣幕で捲し立てている。雑誌をずらしそんな夏油を観察する美々子はやれやれと溜息を吐き菜々子にメールを送る。



『パパが迎えに行くって』



少し出かけるからね、いい子でお留守番しておくんだよ。ベランダから戻って来た夏油はそう言い慌ただしく部屋を出て行く。わかってるよ、と笑顔で返した。










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美々子からのメールを受信してすぐだ。菜々子が大きな声で「パパが迎えに来るって!」と騒ぎ出した。「え、ここに?」 がそう言えば、そうだと答える。ここまでの詳細な道をこの子が覚えていたとして、それを聞いて辿り着く事が出来るのだろうか。しかし、これでこの子の少し大人びた大冒険も終焉を迎える。こうしてわざわざ迎えに来る親は珍しい。菜々子を見るに恐らくはいい家族に恵まれているのだろう。年相応に我儘で可愛らしい娘だ。


とりあえずお父さんが来たら教えてよ、扉を開けるから。そう返し迎えを待った。言い訳する気もないし子供の口に蓋は出来ない。どうせ家に帰ったらここでの話もするだろう。二度と来る事もないだろうし、今日は菜々子を引き渡しゆっくりするかと思っていればだ。全身に悪寒が走った。余りにも急な事で思わずよろめく。



「どしたの?大丈夫?」
「いや、ちょっと立ち眩みが」
「あ!パパ来たって!」



タイミングが悪すぎると思った。悪寒は依然続いている。早く扉を開けなければならないのに、そこに向かいたくない。足が竦む。菜々子は怪訝そうな顔をしてこちらを見上げている。この扉を挟んだ向こうに、一体何がいる?菜々子は扉の前で早く早くとこちらを待っている。


一歩進むごとに奈落へ堕ちて行くようだ。歩みが余りに重く逃げ出す事も出来ない。意思とは裏腹に足は進む。鍵を開け扉を開く。吐きそうだ。壁に手を付いたまま男の足元が見えた。スリッポン。その上。黒のスウェット。背の高い男―――――



「パパ!」
「迎えに来たよ、菜々子」



菜々子はとても嬉しそうに抱き着いている。口元を手で押さえどうにか耐えた。これは何だ。こんな感触は味わった事がない。



「どう?パパかっこいーでしょ」
「よしなさい、菜々子」
「どうでもいいんで早く連れて帰って下さい」



は夏油を見ずにそう言った。この女は扉を開けた段階から様子がおかしかった。こちらを見ない。呪力を持たないはずなのに妙な反応だなと感じた。とりあえず車に行っていなさい、と菜々子に告げる。菜々子はパパが迎えに来た事が相当に嬉しかったらしく飛び跳ねながら手を振った。



「…娘を助けて頂いたようで」
「ここら辺は治安がよくないんで、たまたまです」
「ああ、だからあなたみたいな女が住んでいるわけだ」



沈黙。 はまだこちらを見ない。



「そうですよ。ですので、二度と来させないで下さい。大事な娘さんを」
「そうしたいのは山々なんだが、彼女の意思は尊重したいんだ」
「ここ、援デリの元締めですよ。ご存知ですか?」
「お前みたいな女が猿どもに股を開く職業だろう?」
「親御さんなら行くなと言って当然なのでは?」
「…あなた、お名前は?」
です、が」
「私は夏油と言います、これをどうぞ」



緊急時の連絡先です、と名刺を渡され震える指でそれを受け取る。やはりこの女、様子がおかしい。やはり はこちらを見ない。



「あれは言い出したら聞かないんだ。娘がやりたいようにさせる、しかし絶対にそんな真似はさせるな」



夏油はそう言い立ち去った。










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あの日は最悪で、夏油が帰ってからすぐに高熱が出た。あの男、何かしらの病原菌でも持っていたんじゃないかと疑う は三日ほど寝込み、その間の業務は一番可愛がっている二十歳の子に任せてみた。何れ自分が辞める時には引き継ごうと思っている相手だ。寝込んでいる間にも菜々子からのメールは幾つか入って来た。『今は熱が出てるからダメ』そう返し泥の様に眠る。全快するまで一週間程かかった。こんなに体調を崩したのは生まれて初めてで驚いた。



「パパかっこよかったでしょー?」



全快して丁度三日目。菜々子は性懲りもなく又、来ている。



「惚れちゃダメだよ」
「ないよ」



思わず即答してしまった。夏油の姿を思い出すも、はっきりと顔を見ていないし、正直な所あの果て無い恐ろしさしか覚えていない。あれは一体何だったのだろうか。発熱と無関係とは思えないのだが。



「てかさ、若くない?」
「血が繋がってるわけじゃないからさ」
「そうなんだ」
「パパは私たちを救ってくれたんだよ」
「へぇ」



は基本的に話を聞く。それとは対照的に自分の話はしない。菜々子がうっかり出す『呪力』や『呪霊』といった単語にも反応せず只、話を聞く。



「でもよかったじゃん、助けてもらえてさ」
「そうなの、もうマジ感謝」
「助けて貰えない子もいるからね」



助けて貰えない子供は山のようにいる。 の元で働いている女の子の半数はそうだし、実際 自身もそうだった。










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の生家は古くから呪詛師を輩出している曰く付きの一族だった。表には決して姿を表すことの無い一族で時代時代の権力者の背後で暗躍する。地方の山奥に隠れる様に生き、外界との関わり合いを持つ事はなかった。だから、菜々子が時折口にする『呪力』や『呪霊』という言葉はまったく知らないものではない。


自身生まれた時には呪力があったはずだ。僅かばかり覚えている幼少期の記憶ではそうだ。だけれど、ある日突然奪われた。手にした力はなくなった。当主であった の父親が呪詛返しに遭い次期後継者と名高かった に呪いが直撃した。丁度彼女が乳母と散歩をしている最中の出来事で、 と手を繋いでいた乳母は左手首だけを残し蒸発した。


にかけられた呪いは『そのものの呪力を術師が死ぬまで封印する』というものだった。呪詛を返された父親は儀式部屋の上座で事切れており呪詛の失敗を皆が知る事となる。年寄り達がどういう話をしたのかは分からないが、父親の命により手打ちとなった。父親の死は忌むべき出来事としてその一件自体が闇に葬られたらしい。


それまで蝶だ花だと可愛がられていた が出来損ないと罵られ始めたのもその頃だ。呪力のない者に居場所はない。最後まで を庇った母親も死んだ。病に倒れた彼女は村はずれのあばら家に放置され死んだ。殺されたようなものだ。その頃には世界の全てを憎むようになっていた。


虐待は身体的なものから性的なものに移行しており、母親の死後本家に連行された は座敷牢に監禁された。同世代の男達数人に対し 一人は余りにも無力だった。そこで毎夜犯されながら事の真相を知る。 を犯す事に執着していたのは の次に後継者と名高かった男で、奴は嘲りながら の身に起きた事を告げた。呪力もない只の女になんの価値がある?俺の子でも孕むか?この男もこの家も何もかもなくなってしまえよ。一頻り暴れ殴られ犯され朝日を望む。


が追い出されたのは丁度その頃の事だ。単純に次期後継者の身辺整理の為に里を追われた。あの男は最後まで渋っていたようだが、老人達は の存在を忌むべきものだと考えていた。老人達は犯されボロボロの姿で蹲る の元へ来た。汚物を見るような目で を見下ろし座敷牢の中の彼女へ『里からの追放』を言い渡した。


家を追い出された が辿り着いたのが渋谷だった。行く先のない は円山町のラブホ街を彷徨っていた。渋谷へ来たのはあいつらがこちらを散々犯している時に話していたからだ。あいつらの焦がれる場所にあいつらよりも先に行きたかった。



「お前、見ねぇ顔だな、こんなとこで何やってんだよ」



これまで数えきれない程の親父から声をかけられた。全員が援助交際を口にした。 は援助交際を知らなかったが、男達の下卑た口調だけで吐き気を覚えた。黙ったまま首を振れば男達はすんなりと諦めた。辺りを見回せば自分と同じような年代の女の子が幾人も立っていて、それらと同じだと思われているらしいと気づく。


制服を着た女の子達はキレイに着飾り男達とやり取りをしている。同世代の女子がそうやって金を稼いでいる場面を目の当たりにして成程と思った。声をかけてきた男は親父というには若く、口元に傷の有る男だった。厭らしさは感じないが如何わしくはある。



「喋れねーか?」



首を振る。



「お前、名前は」

「俺は甚爾だ」



の腕には薄っすらと傷がついていた。地面にしゃがみ込みパーカーのフードを被りこちらをじっと見上げる。何となく自分と同じ雰囲気を感じるがそれだけだ。携帯で知り合いの援デリ業者へ連絡をつける。



「家出か?」
「追い出された」



という事は捜索願は出ていない。リスクが一つ下がった。 を連れ歩きながら少しずつ情報を聞き出す。



「お前、何でもやるだろ」
「やると思う」
「身体くらい楽に売れんだろ」
「気にしないけど」
「ガキが1人で生きて行けるほど世の中甘くねぇぜ」
「知ってる」
「お前、親は」
「死んだ」
「そうか」



絶望しか孕んでいない眼で娘は言う。ああ、そうか。この目が俺と似てるのか。



「俺はお前を助けてやる事なんざ出来ねぇぜ」
「いいよ、別に」
「お前を業者に売るつもりかも」
「いいって」



会話の成果はすぐに出て、 は僅かに笑顔を見せ始めた。容易く心は許すな。誰にも心は開くな。少なくともお前みたいに弱い生き物はやめておけ。すぐに取って食われるぜ。



「死にてぇか」



甚爾を見上げた はじっと目を見て、「殺したい。全部」そう呟いた。いい目だな。そう思った。ようやく到着したのは古い雑居ビルの一室だ。 は黙ってついて来た。業者に引き渡し金を貰う。不思議と少しだけ気まずくなり を見た。罪悪感なんて柄にもない。 は甚爾が受け取った札束をじっと見ている。



「それが私の値段?」
「お、おぉ…」
「悪くないね」



は笑った。コイツはここでやっていけるだろうと思った。それから数回、甚爾は顔を出した。その都度コイツにいい客をつけてやってくれよ、と言い本人は決して手を出さなかった。甚爾より年上の客が大半を占める。 は幾度か甚爾にヤらないのかと聞いたが、彼は頑なに拒否した。子供は嫌いらしい。俺は大人の女にしか興味ねーの。そう言っていた。


はそこで半年ほど身体を売り運営側に回った。最初からそのつもりだった。只で身体を売る気には到底なれず、どうにか生き延びる術を模索した結果だ。オーナーは所謂反社会的組織の人間で黙々と仕事をこなす に目を付けた。若い女は若い女を信じる。男に搾取されていると感じる女なら特にだ。女の管理を任せるには女がいいだろうと声をかけられた。願ってもいないチャンスだった。


そのまま暮らしある程度の金も稼げるようになった。運営に回った段階で が身体を売る事はなくなった。そんな生活を送り迎えた20歳の誕生日に、ぼんやりと何かが認識出来るようになった。ぼんやりとした何かは至る所にいてこちらを見ている。最初は脳の病気かと思った。昨日まで見えなかったものが急に見えるようになったのだ。病院へ行きMRIを受けたが結果は問題なし。


そこまでしてようやく思い当たった。術師の力が弱まったのだ。返せ。返せ。返せ。私の力を返せ。その頃には甚爾はすっかり姿を見せなくなっており、風の噂で死んだのだと聞いた。










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最近では輪郭まではっきりと分かるようになってきた。だけれどそれだけだ。なす術はない。だから夏油が恐ろしい。あの何百もの恐ろしい気配。1人の男から感じる気配ではない。


菜々子と美々子が外で男たちに襲われかけた時、ぼんやりと感じたあの気配。この娘達は男たちを殺すだろうと感じ厄介ごとを避ける為に手を貸した。ここに警察が来る事を懸念したからだ。


夏油がここに来て以来、菜々子だけでなく美々子も顔を出すようになった。夏油とて同じだ。いつしか勝手に合鍵を作られており、気づけば勝手に部屋にいる事も度々だ。この部屋は基本的に不特定多数の人間が出入りするのだけれど流石に驚く。正直な所、奇妙な親子ごっこに巻き込まれていい迷惑だと思っている。それを私は知らない。夏油は相変わらず慇懃無礼な態度だった。



「今日、面接あるからちょっと出かけてよ」
「えぇー」
「女がビビるでしょ、その人いたら。ていうか何でいるの」
「行こうか、二人とも」



に呪いがかけられているという事に気づいたのは美々子だった。何か変なのが ちゃんに憑いてるんだよね。彼女たちの会話からそれを知り、確かめる為にここへ来たのだが確かに呪いがついている。性質としては『居場所を相手に教えるような呪い』だ。無論 は気づいていない。


それにしても古い方式の随分とちゃんとした呪いだ。素人がかけるような雑な呪いではない。この女、何故こんな呪いを受けた…?そもそもこの形式の呪いをかける相手は何者だ?


それから暫くの間、送り迎えがてら の周囲を見張る。住処に向かう途中、明らかに呪詛師であろう輩の姿を目にする事も度々だ。 に憑いている呪いはより強力になり呼び水を撒いていた。


そろそろ頃合いかと思い、夏油は一人で の住処へ向かった。夜半過ぎの出来事だ。鍵を開け中に入る。すぐに複数の呪力を感じた。息を潜め の自室を伺う。


は複数の男に輪姦されていた。最初は痴情の絡れか仕事上のトラブルかと思っていたが、普段の彼女からは想像もつかないほど感情的になっている。この女も泣く事があるんだな、と思った。仕事であればああはならないだろうし、犯している複数の男達は皆それなりの呪力を持っていた。この一帯で彼女を見張っていた呪詛師の顔もあった。しかしこの数の呪詛師が何故ここに集まり彼女を犯している?そのまま外へ出て孔に連絡を取った。



「久々の連絡だってのに妙な話をするもんだ」
「なるはやで頼むよ」
「OK」



菜々子と美々子が撮った との写真を孔に送り彼女の素性を探らせる。孔の仕事は相変わらず早かった。翌日バイク便で書類が届く。すぐに振り込みを完了した。


報告書を見るに、成程彼女は古くから呪詛師を輩出している曰く付きの一族の出身らしい。相変わらずこの界隈には得体の知れない有象無象が蠢いている。 に呪詛返しをしたのは界隈では著名な呪術師だ。夏油も高専にいた頃、顔を見た事がある。日本国内でも指折りの呪術師だが、相当に高齢の為、一戦は退いたと聞いている。すぐにその呪術師の現状を調べ、彼の寿命が尽きかけている事を知った。年寄りだ。仕方のない理だろう。問題は別にあった。


今際の際にいる彼は に対する呪詛返しを自らの死後も発動させようとしていた。そこまでの力なのか?と単純に興味を持った。その後も は何食わぬ顔をして生活している。特に何かダメージを受けたような素振りはない。呪いはまだ憑いている。



「何かさー って視えてる感じするんだよねぇ」



美々がポツリと言う。



「あー!わかるわかる、何かそんな感じするよね」
「ねー?何で隠すのかな?」
「こっちから言ってみる?」



菜々子と美々子でさえも気づいている。あの女は一体何なのだろう。










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あの日突如部屋へ押し入って来た男達の顔に見覚えがあった。いよいよか、と思う気持ち半分、嫌悪半分だ。二十歳を超え日に日に力が戻って来ている事に気づいていた。一族の手が忍び始めるのではないかという不安は常にあった。襲って来たのは現党首となったあの男だ。あの里でこちらを散々と蝕んだあの男。男達は を犯しながら2週間後に迎えに来ると言った。



「お前の処遇が決まった。何、殺しはしないさ。その力を持つ子が産まれるまでせいぜい嬲られろ」



男達が の力を恐れているのは明白だった。だが、戻らない。まだ戻らない。 に力が戻り復讐される前に手足でももぎ達磨にでもするつもりなのか。子を孕み産むだけの肉の塊。奴らはそのくらいの真似をするはずだ。猶予は2週間。恐らくその間に準備を済ませるのだろうし、奴らに捕まれば2度と戻れなくなる。自由は永遠に失われる。


男達が帰った後、速攻で事後ピルを飲み馴染みの闇医者へ向かった。店の女達も懇意にしている24時間営業、保険の利かない医者だ。ここへ駆け込むのはいつ振りだろうと思いながら急ぐ。最初は確かこの仕事をやり始めてすぐの事で、客の男から無理矢理中に出された時じゃなかったっけ。病院に着きすぐに内診台に上る。



「おいおい 、お前ともあろうもんがどうしたってんだ。裂けてるぜ」
「下らない話だよ」
「余り無理はしなさんなよ」



子宮内洗浄を受け軟膏と抗生物質を処方された。そのままよろよろと戻る。暴力的に犯されると兎に角全身へのダメージが著しい。出血もしているようだ。下腹部がズンと重く痛んだ。路地裏にまで到着し扉を開ける。すぐそこに吸い殻が落ちていた。


あの時―――――そこに夏油がいる事に気づいていた。何をしに来たのかは知らないが嫌な場面に出くわしたものだ。男達もその気配には気づいていて、故に早々と姿を消した。夏油がそこにいた甲斐はあったわけだ。あんなに薄気味の悪い気配はそうない。


しかし、どうする。すぐに動くわけにはいかない。観念したと思わせ隙をつく他に手がない。1週間はこのままだ。そのまま姿を消そう。どこへ、は未だわからない。これまでに色々調べたが出自が呪詛師の為、頼る先はない。問題の呪術師を殺そうにも術はない。酷く著名な術師の様で近づく事も出来なかった。










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夜の帳に乗じ姿を消す以外に術はなかった。誰にも何も告げずひっそりと逃げ出す他ない。仕事用の携帯は置手紙と共にテーブルの上に置いた。自分の後釜には例の子を指示した。彼女であれば問題なく業務を引き継げるだろう。私物は全て捨てた。プライベート用の携帯と財布だけが私の全てだ。ホテルのフロントを通るわけには行かず、いつもの扉から外に出る。夏油がいた。気配で気づいていた。



「…あんた、暇なんですか」
「彼女達に挨拶もなしとは感心しないね」
「…」
「どこに行くつもりだ?」



そんな呪いをつけたままで。



「この前もそこにいましたよね、どうでした?ていうか何してたんです」
「お楽しみの最中とは知らなくてね」



夏油が左腕を上げ の頭上を払った。空を掴み握り締める。



「こんな呪いをつけているようでは、どこに逃げたってすぐに見つかってしまうよ」
「…!」



この程度の呪いも見えないお前に何が出来る。



「助けてやろうか、
「…」
「まぁ、断われる立場でもないだろうが」



突然の申し出に動く事が出来ない。そもそも夏油の目論見が分からない。この男に何のメリットがある。これは罠か?即座に考えるが答えは出ない。



「何だ、飛びつかないか」



可愛げのない女だ。



「だったら、これでどうだ」



そう言った夏油は死体を二つ投げつけた。 の足元に転がる。一族の人間だ。先日襲ってきた男達の中に見た顔だ。



「どうした、そんなに驚いた顔をして」



お前、監視されていたんだぜ。そう言われ初めて夏油を正面から見据えた。これは私か?なるはずだった私の姿なのか?不思議とこれまで感じていた恐ろしさは消えていた。



「ついてこい、面白いものを見せてやる」



夏油はそう言い歩き出す。 も黙ってそれに続いた。


夏油と を乗せた車は教団の多摩支部へと向かった。渋谷から多摩まで小一時間無言のドライブだ。夏油は腕を組み目を閉じていたし、 は窓の外を流れる光を見つめていた。


多摩支部には本殿と外殿があり、車は外殿方面へ入って行く。深夜という事もあり静かだ。車を降り外殿内部へ進む。何かしらの宗教儀式をする場所なのだろう。非常灯の灯りだけを頼りに進む。夏油が扉を開き に向かい手を拱いた。


招かれたのは薄暗いホールだった。ステージがありそれを望む様に客席が連なる。夏油がステージ上の照明をつけた。急な眩しさに僅か目を瞑る。ステージ上に一人の老人が横たわっていた。後ろ手に縛られ無造作に捨て置かれている。夏油は老人のすぐ側に立ち を見ていた。まるで見覚えのない顔に怪訝な表情を浮かべる。



「そんな顔してやるなよ、お前をよく知る年寄りだ」



夏油が老人に向かい軽い攻撃を加えた。老人が呻く。僅かに出血もしているようだ。その刹那、俄かに全身が漲った。この感覚は何だ。これが呪力が漲るという事なのか。これまでずっと脳の後ろの方にいたモヤモヤとした何かが一気に無くなった。これまでもぬけの殻だった全身に力が漲る。ハッとした顔で が夏油を見た。まさか、こいつが。



「夏油、貴様…」
「お久しぶりですね、何時振りですか」
「呪詛師に成り下がったと思えばそれと関わりを持つとは、貴様も業の深い男よ」
「貴方ほどではないと思いますが」
「それは忌み子だ、貴様も障るぞ」



これに?



「それは面白そうだ」



夏油と話をしていた老人がこちらを見た。



「お前も、あの時に命を落とすべきだったのだ」



あの時、 の父親が執り行った呪いの儀式はとても強力なもので国をあげて対処に乗り出した。彼は明確なテロとしてその儀式を執り行った。国家転覆を狙うレベルのものだった。


その情報を辛うじて事前に得る事の出来た国側は老人を筆頭とした著名な呪術師を集め一斉に呪詛返しを行った。呪術師側も集められた半分が命を落とすという凄惨な呪詛返しだった。それだけの呪いを返したのだから通常であれば対象者である は死ぬべきであり、そうならなかった事自体が自然でない。



「返せ」



口から出ていた。



「私の力を返せ」



さて、どうする。



「もうお前たちの好きにはさせない」



老人の出血量が増えれば増える程に力が増す。それははっきりと感じる。幼い頃何より側にあったものだろう。この全身に漲る力は私のものなのか。止めどなく力は注ぎ込まれる。止める事は出来ない。私という器に収まるのだろうか。キャパを超えたらどうなる。だって私は、余りに無力でこれまで何も鍛えられていない、呪力の使い方など分からない―――――


漲る力がこの身を侵した。一瞬気が遠くなり両腕で身体を抱き締めたまま蹲った。動悸が激しくなり全身が心臓になったようだ。老人に向かい右手を伸ばす。それは から見るとやめてくれ、という意味合いのものだったと思う。だけれど老人は怯えた。引き攣った顔でよせ、と首を振った。


よせ、とは何だ。よして欲しいのはこちらの方だ。有り余る力が流れ込み全身が破裂しそうだ。やめてくれ。老人の身体から の指先へ呪力が吸い込まれていく。もう止める事が出来ない。



「素晴らしい」



老人の呪力と共に生体エネルギーが に奪われていく。元々枯れ木のような老人だったが全てが終わる頃にはミイラ化していた。 はこの老人の全てを文字通り奪ったのだ。


は圧倒的な呪力の供給に抗っている。これだけの呪力が真っ新な身体に注がれたのだ。拒否反応を示してもおかしくない。後は 自身が耐えきれるかどうかだ。この小さな器はそれに耐えうるのか。客席に座り の様子を小一時間程伺った。どうにか霧散する事無く事切れる事無く彼女の拒否反応は終わった。その代わりのように一週間滾々と眠り続けた。










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ハッと目が覚めたのはあれから一週間後の事だった。全身は酷い筋肉痛で思うように動かす事が出来ない。数分かけようやく身を起こす事が出来た。長い夢を見ていたようだが思い出せない。何か違和感があるなと思えば尿カテーテルが挿入されている。これを抜く事が出来ず手こずっていれば菜々子と美々子が駆けこんで来た。突然の大声に驚いてしまった。



「な、何」
「パパー! 、起きたよ!!」
!!」



ベットに座った に美々子が飛びついて来る。いや、ちょっと待って。今わたし身体が。そう思うも時既に遅しだ。菜々子もそれに加わり痛みで声が出ない。夏油は医師と看護師を連れて来た。ここは夏油達の住処らしい。



「よく耐えたね」
「何か人、違くない?」
が『猿』じゃなくなったからだよぉ」
「は?『猿』?」



以前とは明らかに態度の違う夏油に違和感を覚えながらも医師の診察を待つ。看護師からカテーテルを抜かれる時は気持ち悪さに辟易とした。この部屋は客室であり、好きに使えばいいと夏油は言った。



「『猿』ってどういう」
「非呪術師の事さ」
「は?」
「私は『猿』が嫌いでね」
「あぁ…」



同じような意味合いの言葉を散々言われた。呪力を失ったお前に価値はない。お前が生きている意味は何だ。この、役立たずが。



「…」
「力を取り戻した感想はあるかい」
「…ないね」
「素っ気ないな」



そう笑った夏油は夕飯までゆっくりしているといい、そう言い立ち上がる。彼女たちが私の好物を作ると言って聞かなくてね。君が目覚めたお祝いも兼ねるつもりだろう。そう話しかける夏油の様子がこれまで知っている彼とまったく相違しており気持ちが悪い。あの奇妙な家族ごっこにいつの間にか巻き込まれているのだろうか。


夏油が部屋を出て行ってすぐに又、横になった。力が戻ったとはいえ、それを使いこなせる自信もない。右手を翳し変化を期待するも何も変わらない。全身は未だ酷く痛むし、やはりまだ疲れている。気づけば又、いつしか眠っていたようだ。菜々子に起こされ目覚める。



寝過ぎだって」
「自分でも引くわ」
「ご飯出来たよ、行こう」



手を引かれ部屋を出る。広い家だ。階段を降り一階のリビングへ向かった。リビングにはテーブルに所狭しと料理が並べられていた。子供の好きそうなメニューが勢ぞろいで、本当にお前の好物なのかよと思うが口には出さない。流石にそれは無粋だろう。多少形が崩れてはいるがご馳走然としている。


夏油はニコニコと機嫌がよくこの『家族団らん』にご満悦の様だ。席に着き頂きますを終わらせ様子を見守る。やはり菜々子と美々子が基本的には喋り、夏油は相槌程度の返事をするようだ。



は何が好きなの?」
「え?」
「食べ物の話だよ!聞いてなかったのー?」



急に話を振られ困った。



「食べ物?」
「そう!」



好物はなにかと問われても、正直な所、呪力が奪われてからというもの一緒に味覚もなくなった為これまで美味しいという感覚がなかった。だから住処の冷蔵庫にはサプリメントと7Upのような炭酸の強いジュースしか入っていなかった。濃い味や強い刺激であれば僅かに感じる事が出来たが、それが美味しいかといえば違うだろう。


その事を告げるとギョッとされた。今なら味がするんじゃないのか、と夏油が助け舟を出し、菜々子と美々子は自分達が好きなものを其々に勧めだした。その様子を見ながら、味がしないので残飯も食えたな、と昔を思い出す。味はしないがゴミはゴミなので、痛んでいるものは身体が拒否反応を示し吐き出させるんだよな、と思いながら出されたご馳走様を見る。グラタンにタマゴサンド。フルーツサラダ。恐る恐る口に入れる。



「もっと美味そうに食えよ」



夏油が笑いながら言う。あんた、そんな顔で笑うの。



「彼女達がお前の為に作ったんだ」



そうか、と思い二人を見る。 の反応に期待を膨らませた目でこちらを見ている菜々子と美々子を前に、美味しいよと返す。やはり子供だ。それだけの言葉で無邪気に喜ぶ。実際に料理は美味しかった。


人の変わったような夏油は『家族ごっこ』にこちらを巻き込むつもりらしい。あの慇懃無礼な男がどうしてここまで変わる事が出来たのか分からないが、今のところ行先がない。それに急に取り戻した呪力の使い道も分からない。宝の持ち腐れとなる可能性もあるわけで、ここはとりあえず大人しくするが吉だ。


目覚めた翌日から夏油による『呪力を操る訓練』を受ける事になった。体内に渦巻く呪力をいかに効率よく使うのかが焦点となり、夏油は酷く献身的に根気よく教えてくれる。この夏油とあの夏油、どちらが本当の夏油なのだろうか。どちらでも構いはしないのだが、そう思わざるを得ない程の違和感があった。呪力のありなしで決める点においては一族の奴らより夏油の方が割り切れているのかも知れない。


しかし、目覚めた時には気づかなかったのだが、日に日に呪力が増していた。過度な力は身を滅ぼす。この身体は器として不十分なのだろう。夏油には言っていないが指先の痺れは徐々に広がってきている。又動かなくなるのか、若しくは死ぬのか。それとも再度失うのか。ようやく戻った力を二度失う事は避けたい。


この力が宿っている間に一族郎党皆殺しにしなければ気が済まない。力を奪われたあの日から一心に願っていた事だ。私はあいつらを殺したい。絶対に許す事は出来ない。心を許すにはそれ以外に方法がない。この黒くドロドロと渦巻く感情は常に私の側に寄り添いこのクソみたいな世界を生き抜く勇気となった。今更切り離す事など出来ない。


それに恐らく夏油だって気づいているはずだ。彼は注意深くこちらの様子を観察している。ほんの僅かな変化も見逃さないようにだ。彼は の呪力を評価しており、どうにか順応化させ『疑似家族』に引き入れたいと考えているようだ。一変した態度の理由がそこにある。理にかなったものの考え方だ。


この指先の痺れがどういう結末を齎すのかは分からないが、そこから漏れだす呪力は古代の文字を象る。神代文字の一種なのだろうがまったく読めない。夜一人この部屋で天井を仰ぎながら両手を翳せば、この両腕を流れる血液に神代文字が混ざり流れゆく様が見える。赤い血液の中を黒々とした文字が入り乱れるように流れる。これは呪いなのではないか。呪力が戻ったのではなく、呪詛返しの続きなのではないか。老人の言葉を思い出す。菜々子と美々子は がここにいる事、彼女に呪力がある事を単純に喜んでいた。


指先の痺れはどんどんと増し数日後には流石に隠す事が出来なくなった。食事の際にフォークを掴めなくなり露呈した。夏油はすぐに仲間の呪詛師を呼んだ。ミゲルと呼ばれる黒人で、彼は を一目見るなり首を振った。夏油達にはこの神代文字が視えていないらしい。感覚のなくなった指先から肘までびっしりと刻まれている。


の体内で呪力はどんどんと力を増し暴走を続けている、とミゲルは言った。彼女自身では抑えられない。



「…呪力ガ体内デドンドン増幅シテイル」
「どうにか抑える事は出来ないのか?」
「彼女ガ順応出来ルスピードデハナイ、余リニモ早スギル」



このままでは呪力に喰われてしまうだろうとミゲルは言った。誰も驚かなかった。 自身でさえもだ。応急処置ではあるがミゲルが拵えてくれた呪符を両腕に巻き付け進行を遅らせる事になった。様子を見ながら対処法を考えようと言う夏油と別れ部屋へ戻る。


腕に神代文字が刻まれるようになってから、部屋の隅に父親が立つようになった。最初に気づいた時は隅にぼんやりと立っていた。その翌日には少し近づいて来た。その次、その次。彼は徐々に近づいて来る。これまで一度として姿を見せなかった彼が何故ここに来て現れるようになったのか。何が言いたいの。声をかけても父親は反応を示さない。彼が出現して七日目の夜、夢を見た。










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果てしなく広がる荒野の中に立っていた。父親は辺りを眺め、ずっとここにいるのだと言った。草木もなく轟轟と風の吹く寂しい場所だ。目の前に立つ父親はあの頃の姿だった。



「…お前には話しておかねばならないと思ったんだ」
「お父さん」
「私は古代の神を召喚し呪いの糧としていた」



父は言った。神が祟った。確かにそう言った。父は古代の自然神をその身に降ろし呪詛を行っていた。神を降ろす事の出来る唯一の呪詛師だった。故にその力は強大で唯一無二と呼ばれた。古代の自然神はそもそも姿かたちがない。海や山にといった自然の中にいて気まぐれに暴れ贄を欲す。人々はそれを恐れ崇め奉った。神は強大な力を持つ。それに祟る。


呪詛返しを喰らった父親は即死し、神は贄として に祟った。新たな怨霊を作り出す為に。それには意思がない。只、強大な力を維持する為に贄を欲す。



「…これは呪いなのね」
「そうだよ」
「私はどうなるの」
「怨霊化するだろう」
「そう」
「お前の両腕に刻まれたその文字、それが全身に刻まれた時に贄は完成する」



血液の中に浸食し身体の中から染み出す呪い。神は贄を逃さない。防ぐ事は出来ない。その文字が刻まれる度に呪力が増す。只、それを使う器足りない。父親は呪力を上手くコントロールする術を取得しており、体内で神を囲う事が出来た。しかし人にはすぎたものだ。神の領域。結局彼は命を失った。



「こうなる事が分かってたのね」
「すまない」
「母さんはのたれ死んだ、私もそうなる」
「お前の中にある負の感情が糧だ」
「それは」
「皆、知っていたのさ」



こうなる事は。私達は呪詛師だからな。その刹那、父親は業火に包まれた。私はここにいる。ここにこうして朽ちる事無くいつまでも業火に焼かれているよ。彼は彼で神の怒りの最中にいる。目覚めればそこに父親の姿はなく、両腕に巻かれていたはずの呪符は燃え尽きていた。


燃え尽きた呪符を見た夏油はすぐに新しい呪符を巻いたが、ものの数分の内に燃え尽き朽ちてしまう。すぐに新しいものを、と言った夏油はこちらの腕に触れた瞬間火傷を負った。それを見て潮時だなと思った。この身は既に安全ではない。


父親の言葉は恐らく真実なのだろう。私はじきに怨霊と化す。だったらもう猶予はない。一刻も早く奴らを殺しに行かなければならない。私が私である間に。


その日の夜、足音を立てないよう忍び足で抜け出した。別れの言葉なんて柄じゃない。この腕が害を及ぼす事が恐れ菜々子と美々子に近づく事が恐ろしかった。



「…あんた、暇なんですか」
「前も言ったろう、彼女達に挨拶もなしとは感心しないね」
「…」
「どこに行くつもりだ?」



そんな呪いに身を冒されたままで。



「何これ、デジャヴ?」



そう言い笑う。神代文字は の両腕全てに刻まれ胸から下へ進んでいた。身体が動く間にケリをつけなければならない。



「そんな呪いに冒されたお前に何が出来る」
「…」
「術はあるはずだ」
「…」
「彼女達を悲しませるな」
「私、何もかもが嫌なの。呪術師も呪詛師も、それ以外の人間も何もかもが嫌。だからあんたのいう理想の世界にも共感出来ない。私はあんたの『家族』にはなれない。それは私の求める世界ではないから。生きてるだけで苦しい、この世の何もかもが許せなくて辛いのよ」



そのせいでどんどんと悪霊化が進む。呪詛師である の周囲にいる大人達は の身に起きた事を熟知していた。何れ に呪詛返しを行った呪術師の命が尽きる時、彼女は贄となる。強大な力を持った怨霊と化す。起死回生の為にその日を待った。贄としてより強い力を保たせる為に虐げ苦しめ、心の中を負の感情で埋め尽す。かくして は万全の器と化した。贄として完璧な負の器。



「私が呪霊になったら喰らうといい。ロクな死に方が出来ないなんて知ってる。あんたの『家族』にはなれなかったけれど、あんたの扱う呪霊にはなれるかもね」



以前、夏油の術式を見せて貰った事がある。彼は呪霊を取り込み僕として自在に扱う事が出来た。



「あんた、私を取り込みたいんでしょう。この力が欲しいのね。どいつもこいつもこの力を欲しがる」



夏油は思い付きで動くような男ではない。先手先手を読む。そのくらいは想定済みのはずだ。その証拠に彼は一切驚かずこちらを見ている。忌々しい。忌々しい。ああ、駄目だ。又、体内で呪力が増幅する。



「お前には過ぎたものだろ」



そんな目で見るなよ。憐れむな。贄としての器にしかなる事が出来なかった私を憐れむな。最後まで私の知る夏油でいてくれよ。最後まで嘘を吐け。そんなに嘘が下手じゃなかっただろう。



「そんなんじゃ先が思いやられるわね」
「…」
「そんなに悲しそうな顔、するもんじゃないわ」



あんたらしくない。そんな『家族』に向けるような眼差しで私を見るな。夏油がこの呪いを解かんと試行錯誤していた事を知っている。寝る間も惜しみ各国の症例を洗い対応にあたった呪詛師に連絡を取っていた。神の祟りとも知らずに。『家族』にも成り得ないこんな私の為に。



「あんたには感謝してるわ、夏油。ありがとう」



何がだ、と吐き捨てる。胸の中で。何がありがとうだ。私はお前をどうする事も出来なかった。只、その呪いを発動させただけで何も。今だってこうしてお前を見送る事しか出来ない。翌朝、 の姿が見えない事に気づいた菜々子と美々子は家の中を隅々まで捜し回っていた。










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事件事故報告書

・S県集落失踪事件

【事件の概要】

①経緯
2×××年9月×日、警察よりS県にあるW集落の住人全員が失踪したとの連絡を受け、高専より特級呪術師五条悟及び他数人の呪術師を派遣。現場は既に警察やマスコミが立入り現場保全不完全状態であった。現場は人里から隔絶された山奥にある所謂限界集落との見方が大半だったが、特級呪術師五条悟が僅かに残る帳の痕跡を確認。それより高専側の管轄となる。

➁内容
呪術界にとってその集落は曰く付きの場所であり、19××年に起こった特級呪詛師による未曽有のテロ未遂事件の現場と目されていた。国家転覆を狙い大規模な呪詛を行った特級呪詛師W(以下、呪詛師Wと明記する)はこの集落に古くから住む呪詛師一族の出身であり、一族を取り仕切っていたと思われる。(事件の詳細→特級呪詛師によるテロ事件へ)この呪詛師一族の存在は古い文献でも確認が出来るのだが、彼らは一定の場所に居住する事がなく素性を隠し暮らしており、その姿を確認した者はいないと認識されていた。

呪詛師W事件の際、初めて呪詛師一族の存在が浮上した。呪術界は潜伏先を総出で探したが見つからず、強力な結界を張り存在を隠しているのだろうと予想された。S県にあるW集落が呪詛師一族Wの住処だったのであろうと予測される理由は二つ。一つは長年貼られたであろう結界の痕跡、もう一つはその集落自体が圧倒的な質量で押し潰されているという奇怪な現場の状況により推測される。警察の発表では土砂崩れと言われていたが、あれは祟りであろうというのが呪術師側の見立てとなる。呪詛師Wが神を憑代にしていた事はテロ事件時に確認されていた。

集落から50キロ離れた場所に住む村人に話を聞くも「あの場所には昔からサンカが住むと聞かされていただけで詳しくは知らない」と有益な情報は得られなかった。ごっそりと抜け落ちた中心部から離れた場所にポツンと残されたあばら小屋には病人の残穢が僅かばかり残っていた。航空写真で確認しても集落の写真は出て来ない為、そこがどういう区分けにされていたのかは分からない。まさに『跡形もなく』そこは破壊されており『何もない場所』になっていた。原因不明。調査すべき理由、なし。生存者、なし。

対応者:特級呪術師、五条悟










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頃合いを見て現場に出向いた。彼女の戦いに関与する事は何人たりとも許されない。調べを付けていた某県の集落は強い結界が張り巡らされているらしく夏油にさえも破る事が出来なかった。まあ、下手に帳を開けば呪術師に知れる。結界の方が都合は良かった。これに関しては高専が関与する前にカタをつけなければならない。 の呪力は覚えている。


翌深夜、 の呪力を感じ事が済んだのだと感じた。結界は失われ の膨大な呪力だけが垂れ流しになっている。急がねばならない。飛行出来る呪霊に飛び乗り現場へ急ぐ。


限界集落の中に はいた。彼女はこれまでの恨みつらみ全てを晴らすように殺し破壊したのだろう。全身に黒く神代文字が刻まれほぼ怨霊と化していた。呪詛師側も無抵抗で殺されたわけでもなく、それなりに応戦したようだ。唯一残された小屋にもたれかかりこちらを見ている。一歩近づこうとしたが の身体から流れ出す血液を見て踏みとどまった。彼女の血液は動いている。



「…気はすんだのかい」
「…夏油」



夏油を見て僅かに残った意識で話しかける。



「あんたでも随分手古摺る」
「これが神の祟りか」
「憐れむなよ」
「ああ」



こうしている間にも の呪力はどんどんと増していく。夏油が左手を掲げた。降伏の儀を行い彼女を取り込まねばならない。それが使命であり今為すべき事だ。その血液に触れるなよと は言った。それは障る。



「そんな顔、しないで」
「…」
「先が思いやられる」
「すまない」
「あんた、世界を創るんでしょ」
「…そうだ」
「あんたの思い描く、理想の世界」



そんなものが何になるのか知らないけれど。そんなものがどうなるのか分かりもしないけれど。だけれど、そうしたいんだったらしたらいい。私はもうこの世界に未練がない。好きに、したらいい。


そう言い は目を閉じ、彼女の身体が輪郭から捻じれだす。彼女は自らの意思で夏油に降伏した。僅かにたじろぐ夏油の手のひらにズルズルと吸い込まれゆく。神に祟られた女。贄としての器。 という名の女―――――



「もっと美味そうに食えよ」



球体に変わる直前、最後に が言った言葉が体内に響く。ああ、そうか。あの時私がお前にかけた言葉だ。掌に転がる黒い球を眺め掴んだ。口の中に放り込み、飲み込む。マズい。マズい。相変わらず最悪の味だ。マズい。マズい。マズい…………………………










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明け方近くに戻った夏油を菜々子と美々子は待ち構えていたようで、玄関を開ければそこに二人はいた。恐らくこちらが家を出た事に気づいたのだろう。彼女達も の不在は堪えている。


一人戻ってきた夏油を見て二人は察したようだ。賢い子だから彼女たちはすぐに察す。美々子が顔を歪め手の甲で涙を拭った。奥歯を噛み締め涙を堪えた菜々子の隣に座る。



は?」
「ここにいるよ」



胸に手をあてそう呟く。 はここ、私の中にいる。眠っているよ。



「よかった。これでずっと一緒だね」



そう言い堰を切った様に泣き出した菜々子と、既に泣いている美々子を抱き締める。菜々子の家出を発端としたひと夏の冒険は終わりを迎え、理想郷へ向かう孤独な旅路が又、始まる。いつだって夏の終わりはこうで、私に新たな決意を抱かせる。