もう朝はやってこない



 その女は確かに何の前触れもなくイザナの前に現れた。イザナと同じ褐色の肌に大きな瞳、色素の薄い髪をした女だった。
 女がどうして天竺のたまり場を知っていたのかは分からないが、兎にも角にも女はイザナの前に現れたわけだ。天竺のそうそうたるメンバーを前にしても臆する事無くイザナだけを見ていた。
 そこには単なる兵隊共も山といたのだけれど、幹部連中も勢揃いしていた。それなのに誰も女を止めなかった理由はそのいでだちだ。彼女は余りにもイザナに『似すぎて』いた。だから彼女はイザナだけを見つめ歩いたのだ。イザナは一瞬ぎょっとした表情を浮かべたが女を見つめ返す。



「初めまして、兄さん」
「……」
「私達、よく似てるわね」



  女の声を聞いた瞬間、わけもなく全身に鳥肌が立ち言葉に詰まる。長い睫毛は大きくカールしていてイザナをじっと見つめている。



「場所変えて話さない?」
「お前、名前は」




  その場にいた全員が固唾を飲んでその光景を見守っていた。すぐ側に座っていた稀咲はを見上げるが彼女は稀咲を見ない。
 これだけの男共が一斉に視線を向けているというのに、この女は汗一つかいていない。何だ。この女は果たして何者なのか。イザナに近づけて構わない女なのか。どうして俺の方が冷や汗をかく―――――



「稀咲」
「!」
「車を回してくれ」



  イザナの声にようやく金縛りが解け、指示を出すべく携帯を手に取る。その時、初めてが稀咲を見た。イザナとまったく同じのがらんどうのような眼だった。










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 足のつかないナンバーの車にを乗せたまま取引用のホテルへ向かった。繁華街の外れに昔からある古いホテルで、その中の数室を天竺が買い上げている。
 ホテルのオーナーは古くからこの街に住む老夫婦であり、小窓からイザナの顔を一瞥し黙ったまま鍵を差し出した。
 相変わらずいつ来ても様変わりしない古い装飾のホテルだ。鍵を開け部屋に入る。
 この如何わしい場所にもは黙ってついて来た。ヤニ臭い室内をものともせずベットに座りイザナを見ている。



「お前、本当に俺の妹なのか」
「他人にしちゃ似すぎてるでしょ」
「……」
「私とあんたは父親が同じ。あいつがフィリピンで買った女が私を産んだの」



なくはない話だ。見た事のない父親はフィリピンの女が好きだったのだろう。それも似たようなタイプを選んだはずだ。
 を産んだ母親は当然ながらすぐにを捨てた。そもそもが予定にない妊娠だった。余り深くは語らなかったが、は売春で生計を立てているのだと語った。



「そんなお前がどうやって日本にまで来たんだよ、出稼ぎか?」
「日本人の男と結婚させられる為に来たのよ兄さん」
「!」
「私、見ず知らずの男に売られるの」



  ベットの上で胡坐をかいたはイザナを見つめそう言う。わざわざフィリピンにまで女を買いに行く日本人は多い。そこでを買った男達の中に人買いを生業にしている日本人がいたらしい。そいつに連れられは日本へ来た。そうして今、イザナの前にいる。何故。は言葉を紡ぎ続ける。
 が生まれ8歳の時に父親はふらりと現れた。その頃既には孤児院にいて、初めて見る実父の姿に怯えた。男の眼差しに覚えがあったからだ。あの男は児童買春ツアーの常連だった。自身に娘がいる事を知りわざわざ迎えに来たのだと笑った。別にいいのよ、とは言う。
 彼はを犯し高値で売った。カンボジアへ連れて行かれそうになったが、の見た目がそれを阻止した。手足が長く大人びたはカンボジアへ連れて行くよりもツアー客相手の方が受けるだろうと判断されたのだ。日本人好みの見た目だった。



「迎えに来るのがもう少し早かったらヤバかったわ。カンボジアに連れて行かれてたら生きてないかもね」
「……」



  ある程度の年齢に達すると売れなくなる為、こうして国外にて結婚する事も多い。も例に漏れずそうなった。
 十代も後半になると価値がなくなる。だから15歳になった頃から男はに日本語を叩き込み始めた。覚えが悪いと容赦なく鉄拳を振るう。少なくともセックスの意思疎通くらいは出来るようになれと『日本人好み』なやり方も教えられた。



「私、見知らぬ日本人と結婚するのよ。顔も見た事ない50過ぎの男とね。ねえ、兄さん。こんな人生クソみたいだと思わない?」



は言う。



「私はそいつとセックスをしてそいつの子供を産むの?」
「やめろ」



 だったら―――――兄さんの方がマシだわ。の腕がイザナを掴む。振り払ってもよかったがそうはしなかった。これだけ顔が似ていても互いに兄妹だとは微塵も感じていない。よく似た他人だ。
 だから何となく誘われるがままにセックスをした。これで共犯者ね、とが囁く。まるで自分を抱いているみたいだと思った。










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  その日からはイザナの側に『当たり前の顔をして』存在するようになった。誰もが何となくの不穏を感じ口出しが出来ない。はイザナを『兄さん』と呼ぶが、それにしては距離が近い。
 皆が悶々としている中、あの時、丁度不在だった半間がを見て「おっ、かわいー」と手を出そうと口を開いた。がどんな反応を見せるのか四天王勢が見守る。
 彼女はイザナを呼びつけるでも、半間にキレるでもなく「幾ら出せんの」と笑った。ああ、そういう感じ?そこでようやく半間もの異様さに気づく。



「バカな真似してんじゃねーよ」
「兄さん」



  稀咲と戻ったイザナはの手を取り消えて行く。



「え?」
「黙ってろ」
「(あれ、イザナの女…?)」
「黙ってろバカ」



  誰もが口に出せなかった疑問をサラリと言ってのける半間はやはりどうにかしていたのだけれど、皆がようやく腑に落ちた。あの女はイザナの『特別』なのだ。だから皆、の存在を受け入れた。イザナがそうなのであれば従わざるを得ない。
 イザナは自らの事を口にしないし、もイザナの力を借り無茶な真似をしてくるわけでもない。彼女は人懐こく誰とでもすぐに打ち解ける。イザナという存在が完全な抑止力になっている分、特に問題は生じなかった。
 天竺でのそんな生活とは裏腹にイザナはの為に男を殺した。彼女をフィリピンから日本へ連れて来た男も殺したし、籍を入れた直後に偽装結婚した男も攫った。の永住権が取れた頃合いを考えるに半年程飯場で働かせた後、殺す予定だ。全ての調整を稀咲が行い、事は全て秘密裏に処理された。
 夕刻に染まりながら言葉少なに「片が付いた」と言ったイザナに「いいの」とが囁く。逆光のイザナは表情が分からない。だけれど別に。短くそう呟いた。