裏切りは合図





肌寒さを覚えはしたものの、シャツを手に取り袖を通す。
もうじき太陽が完璧に昇ってしまうだろう。だから、こんなに冷えている。
昨晩、床に脱ぎ捨てられたままの衣服は冷たく冷え、
まるであの男のようだとも思ったが、口には出さない。


バスルームへ向かい、途中に飾ってある鏡に自身の姿が翳った。
足を止め、顔をよく見る。疲れた顔だ。酷く疲れている。
こんな顔では決して戻れない。
目の下の隈を指でなぞり、コンシーラーを持って来ていたかを考える。
そう長い間滞在するつもりではなかったから、恐らく持ち合わせてはいない。
こんな顔を見るのも飽きたし、そういえば疲れを感じ始めたのはいつ頃からだろうか。
あの男と一緒に夜を越す際、化粧一つ落とした例がない事に気づき苦笑を漏らした。


共に過ごす時間全てが緊張に包まれ、息つく暇もない。
それでは疲れるはずだと思った。
そう言えば先日、エースと夜を越した事を思い出す。
あの時はが先に部屋を出た。
彼は今の自分と同じような気持ちになったのだろうか。














海軍に入ったのは自身の選択ではなかった。
の能力を知った海軍側の希望と、至極真面目に生きてきた両親の希望。
両者の意見が合致し、ある日家へ戻ればお迎えが来ていたからだ。
勝手に決めるなよとも思ったが、
彼らがの意思を尊重する事が
今までに一度としてなかった事から反発もしなかった。


随分昔に家を出た、年の離れた兄が海賊になっており、
その件で両親は様々な人々から責められていた。
その事実を知っていたから受け入れる事にした。
海軍側の腹の内が見えず気持ちが悪かったが、
兄の事も知っているのだろうし、体のいい捕虜としてでも使うのだろうと思えた。
の命をぶら下げられても兄は動じないだろうし、
そんな事は海軍も分かっていたはずだ。


寄宿舎からそのまま海軍士官学校へ進んだは実家へ戻らず、
卒業後そのまま本部付けの海軍兵となった。
彼らの求める正義を何となく理解し、
守るべきものが何なのか、そんなものを教えられる。
学生時代に仲のよかった仲間達は各自、様々な場所へ移されていたから、
最初の半年はほぼ一人で過ごしていた。それでも構いはしなかった。


昇級試験を受け、順調にキャリアを積む。
人生が狂ったのは、クザンと出会ってからだ。
あの男はを呼び出し、とある作戦を口にした。
外部のものに知れてはならない情報、
まだ大将クラスより上の階級の者にしか知られていない作戦。
内容は名だたる海賊の中にスパイを送り込み、
内部情報を漏洩させるというもので、簡単にいえばスパイだ。
これまでも幾人かのスパイを送り込んではいたものの、
ものの見事に皆素性がばれ、戻っては来なかったらしい。


俺はあんたが適役だと思うんだけど。
クザンはそう言った。
断る事は出来ず、の所属は未公開となり、
表舞台から姿を消す事になるが、問題はなかった。
数日後には除隊扱いになっていた。
潜入する先は彼の有名な白ひげ海賊団。兄が戦っていた海賊だ。
顔を合わせる事があるのだろうかと考える。
顔を合わせたところで、彼は覚えているのだろうか。
少しだけ楽しみだったが秘めた。


そのまま潜入を開始し、
最初の数年間はまったく身動きの取れない状態だった。
戦いの最中、海軍の人間を幾人も殺した。正義の名の下に。
後味は悪かったが仕方のない事だと諦めた。
歳月が経過すればするほど、仲間内の信頼も厚くなり、
どちらが正義なのか、その辺りがあやふやになってくる。


そんな隙を狙い、クザンはを呼び出す。
の背を彩る白ひげ海賊団のマークを目にしたクザンは苦笑を漏らした。
最初の数年間、クザンと顔を合わせてからの数年間だ。
その数年間、恐らく自分は彼を愛していたのだろう。
だから異を唱えず身を交わした。
今や惰性となりつつある関係も最初の頃は楽しかったのだ。
彼としても呼び出した先で情報の交換一つせず、
だらしなく身体を求めるだけなのだから当初の目的は見失っているはずだ。
それでも呼び出されれば素直に従っている。今のところは。


夜が明ける前に姿を消すあの男は何を考えているのだろう。
が、海兵を殺している事を知っている癖に。
すっかり海賊に染まっている事も知っている癖に。
自分だけを裏切らなければいいとでも思っているのか。
それならば、大した驕りだ。


カウンターで鍵を返し、
ホテルの外に出れば日差しの割りに冷えた空気が頬を掠める。
背伸びをし、大きく息を吸い込んだ。
この長い歳月の間に、あの男も裕福な家柄の女を娶ったはずだ。
だから朝が来る前に部屋を出て行く。別にすがりやしないのに。


結局、今のところ兄に会う事はなく、潜入捜査は滞りなく続いている。
エースが一波乱起こしそうな気もするが、
起きたら起きたで、容易く揺さぶられるような信頼性は築いていない。
ロジャーの息子であるあの男と寝たなんて言えば、
クザンはどんな顔をするのだろう。
朝焼けの中、相変わらず詰まらない事を思い描けば、
一体誰を裏切っているのかが分からなくなる。
自分自身だという答えは、決して選ばない。






駄目海軍・・・
エースの館『永久に君を騙し通す覚悟を証明に』
の続きです。お前、またクザンか。
2010/4/28

なれ吠ゆるか/水珠