「貘」


思わず名を呟いたのは、
このままでは彼が来えてしまいそうだと感じたからだ。


まあ、元々が一箇所に長居するような男ではない。
そんな事は分かっているが、この一瞬だけは消えてしまう、
そう感じてしまった。


互いの立ち位置も理解しているはずだし、
ここにいてくれと縋れる相手ではない。
だったら、何だ。
この気持ちは何なのか。
助けを求めているのだろうか。
それならば大きな間違いを自分はしている事となる。
相手を間違っている。


「…どうしたの、ちゃん」
「いや、別に」
「そんな、必死に。俺の名前なんて呼んじゃって」


こちらを振り向かない貘は、軽い口調で続ける。


「何だか興奮するとこだったよ」
「何言って」
「だって、。ほら。すっごく」


必死だから。


「貘?」


こんな姿を見られれば、少なくとも無事ではすまない。
お屋形様の感情が揺れるわけはないと思っているが、
勘には触るかも知れない。
命は残るだろうが、相当な痛手は負う。
そのリスクを承知の上で、
自身がこんな真似をしているとは到底思えない。
これは、論理外の出来事だ。心が乱れただけの。


「駄目駄目、あ〜ぁ。そんな、馬鹿でもしない手だよね」
「…」
「賭け事が出来ないヤツってのはさ、あんたみたいな馬鹿だよ」


どうして賭朗にいるの。
貘はそう言い、ようやく振り返る。
自身がどんな顔をしているのかはまるで分からず、
それでも構わないと思えた。
だって、目前の男は余りにも魅力的過ぎる。
魅了してやまない。心が、心さえ。


「俺、あんたの事恨んでんだよ」
「知ってるわ」
「だから、こんな、姑みたいにグチグチ言ってんの」
「分かってるわよ」
「ねぇ、
「何?」
「で、どっちにつくの?」


柔らかな物腰で、つい先刻とはまるで違う雰囲気で、
最終決断を迫るこの男の腹は、あえて透けている。
残されている答は一つしかないが、
がそれを選ぶ事が出来ないと知っての問いかけだ。


「…あんたが、あたしに勝てるようになったらね」
「暴力的だもんなぁ、ちゃん」
「あんたが弱いだけよ」
「どうするの、そんなで」
「…」
「いつまで経っても、何も変わらないでしょ。そんなじゃ」


だから俺の所にも来れないんだよ。
俺の事、大好きな癖にね。


受け止める道理もない癖に貘はそう言い、
こうして心に傷をつけるのだ。
もう呼吸さえ奪うほどに、生きていけなくなるほどに。
だったらいっそ、得意の方法で奪ってくれよと思いもしたが、
自身にそれほどの価値があるのかと思え口を噤む。


だったら、こんな、こんなに狭い箱の中で果たして何をしているのか。
ふと気づけば、こちらに背を向けた獏が
例の如くカリカリ梅を齧っている姿が見え、
これ自体が賭けなのだと知る。



終わりだなんて聞いてない


貘ちゃん熱は未だ継続中。
2012/3/10