「きっと迎えに来る」と嘯いた君







万が一。
万が一お前が俺の事を忘れてしまったとしたら。
その時はどんな手を使っても思い出させる。
どんな術を用いても蘇らせる。
だから安心して全てを忘れちまえと男は囁いた。



もう、とっくに意識が混濁しているは、
ソファーに持たれたまま目を閉じている。
男が何事かを囁くが正直なところ、一切頭には入って来ない。



生まれ堕ちてこの方、ずっとこんな生き方をしてきた。
父親も母親も分からない孤児として名を受け、
泥の中を這いずり回って生き延びた。



天を仰いでも空など見えず、
酷く湿ったレンガの天井だけがどこまでも広がる下水道の中。
ドブネズミと共に餌を取り合った獣のような生き様。
そこから這いだした躯のような身体。
人買いの婆に引き摺られ叩き込まれた水風呂の美しさに衝撃を受けた。



それからはお決まりのコースで、
来る日も来る日も客を取り暮らした。
同部屋の女たちは毎夜泣き濡れていたが、
その理由さえ理解出来ず、
ようやく掴めた空の下の生活に酔いしれた。



毎夜の如く男を迎え入れ、
手にした金も湯水のように使う日々は非常に魅力的で、刹那的だ。
男と酒、薬。全ての欲望を一心に受ける。
全て飲み干し噛み砕けたはずが、それら全てはこの両手に余った。
いや、恐らくは最初から手に余り溢れていたのだ。
あっという間に快楽は潰え、そのツケを払う事になったからだ。



全身を襲う倦怠感、切れ目の激痛、乾き、吐き気。
それでも構わない。構わなかった。
脳を揺さぶるような激しい衝撃、目も眩む快感。
その中で死にたかったのだと思う。











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「えぇ?それなくない?」
「うるせェよ」
「いやいや、ないって」
「つか、付いて来んな。ウゼェな」
「キラーだってそう思うでしょー?」
「おい、キッド」
「あ?」
「客だ」
「客だ?」
「ローじゃん」



キッドの向こう側、がこちらを覗き込む。



「よぉ」
「おい、こいつ連れて行けよ」
「そりゃあ、是が非でもねェが」
「全然そんな気になんない」



だから、お前が仮に。仮にだ。
仮にお前がこの俺を忘れたとしても、
どうにかして俺はお前を取り戻すから。
だからお前はどこかで幸せに暮らしていてくれと、
あの時も今も、同じように願っている。



あの、酷く寒い島では全てが雪に埋もれ、
もう何も、一寸先でさえも見えない。
汚いものも穢れも全て白い雪に消える。



あの島の事もお前は忘れてしまったんだろうか。
こちらが覚えている何もかも、
見苦しく辛い過去の全てを忘れ、お前は生きている。



「そう、邪見にするなよ。悪意はねェぜ、
「殺し合いになりそう」
「まさか」
「いいから、どっかよそでやってくんねェか」



毎度毎度呆れ顔のユースタス屋は、
死ぬほどうざったそうにそう言うし、
その後ろでこちらを睨みつけるに至っては論外だ。
どんな術を使ってでも思い出させると意気込んでみたものの、
今となっては迷いが生じる。



あんなクソみたいな過去を思い出した所で、
にとっては幸せではないだろう。
辛く苦しい人生のリスタート。
そんなものを望んでいるとは到底思えない。



無意識にキッドに付き纏う理由は、過去から逃げているからだ。
過去が形を変えた自分という存在から。



だったらせめて側にいてくれと願う事も出来ず、
思い出すのはあの果て無い雪景色だけで、
どうしようもない心だけが今日も置き去られてゆく。



前回のキッドとローの続きです
当サイトの主人公は大体可哀想です

2017/8/27

蝉丸/水珠