蛇の罠より










暫く振りに登った裏山は、
すっかりと自然に彩られていた。
子供の頃よく走ったあぜ道は知らぬ間に獣道となっており、
まるで見知らぬ風景を擁していた。


確かに、この裏山への侵入を禁じられ数年になる。
今でも下女たちがキノコや木の実を取りに入ったり、
近隣の猟師たちが猪を狩ったりと人の立ち入りはあるのだが、
ある日を境にに限り禁止された。


まだ幼い頃が、音之進を引き連れ駆け回った懐かしの場所だ。
音之進に自我が芽生え
(それは大体、彼が剣術の鍛錬をし始めた頃とリンクする)
母上達が口やかましくなってからも、
嫌な事があると屋敷を抜け出しこの裏山へ逃げ込んだものだ。


少し登った先に開けた場所があり、
その周辺に実るキイチゴやヘビイチゴを食べながら野ウサギを追いかける。
いつまでもそんな暮らしが出来るものだと思っていた。
あの頃はそんな暮らしがいつまでも続くのだと信じて疑わなかったのだ。


それでも時間は過ぎ去り、この身は止める間もなく女性と化す。
あぜ道にうっそうと生える雑草と同じく、人も自然も全てが変わりゆく。
不変のものなど何一つとしてないのだ。
そんな当たり前の事に気づけなかった。



「…雨?」



いつだって足元ばかりを見ていたからだろうか。
過去を羨んでばかりだったからかも知れない。
肝心の目前さえ見ておらず、
雨雲が近づいている事にさえ気づいていなかった。
ポツリポツリと雨粒が落ちてきたと思ったら急に激しくなる。


ここには雨をよけるものなど何もない。
木々の間で佇むのも手だが、
生憎この辺りには葉の小さな木しか生えていない。


目前も見えなくなりそうな勢いに驚き、
咄嗟に駆けだそうとするも、妙なタイミングで鼻緒が切れた。
慣れない山道を登ったからだ。


驚き近くの木に手を付こうとするが、雨に濡れた為に滑った。
体勢が崩れ倒れ込みそうになる。



「…!!」



咄嗟に掴んだ蔓がズルリと抜け、
そのまま木々の向こうに引っ張られる。
瞬間の出来事で対応が出来ない。


バサバサと雑草の間を通り抜け、
その先に見えた光景に息を飲む。


崖だ。
そこにはもう地面がない。


このまま転げ落ちるのだろうか。
悲鳴も出ない。



「…!!」



いざ空中に放り出されかけた瞬間、
背後から強い力で抱きかかえられ引き上げられた。













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「お前、こんなところで何してる」
「…!!」
「お前…?」



余りの展開に言葉も出ない。
今しがた崖から転がり落ちかけたばかりだ。


背後から強い力でこちらを引き上げたのは一人の男で、
こちらの顔を覗き込んでいる。


そこでようやく、その男が昨晩の御一行の一人だという事に気づいた。
玄関で待つといった男の一人だ。
濡れた髪をかき上げている。



「貴方は」
「鯉登家のお嬢さんか」
「あの、私」
「こんなところで何を―――――」



いや、今は兎に角この雨を避けるのが先決だと言い、
男はの腕を掴み立ち上がらせる。
そうして、この先に穴倉があったと続けた。


その穴倉には覚えがある。
昔、これと同じような状況に陥った時、
音之進と一緒に逃げ込んだ場所だ。


あの時も急な雷雨に襲われ、
泣きだした音之進を連れ雨を避ける場所を探した。
どんどんと近づく雷に怯えながらようやく穴倉を見つけた。
音之進と二人、寄せあう様に身を縮めた。



「ここで雨が過ぎるのを待つか」
「あの…」
「悪いね、お嬢さん」



狭いが少し我慢してくれ。



「お名前は何と仰るの」
「俺か?」



穴倉はとても狭く、大人二人が入るには厳しい広さだ。
だから尾形は身を屈め腕を伸ばし、その下にを隠した。
彼女を最も雨から遠ざける方法だ。



「尾形だ」
「尾形さま」
「そいつはよしてくれ」
「貴方は私の命の恩人だわ」
「…」



山に登る女の姿を見掛け、その後を追った。
場所によって山の姿も変わる。
袴姿の女は酷く目立つ。


一定の距離を保ち、山を登ればポツリポツリと雨が落ちて来た。
こいつは荒れるぞと辺りを見回し、避難場所である穴倉を見つける。


その際、一瞬だけ見失ったを捜していれば、
女の小さな悲鳴が聞こえた。



「あんたの縁談相手は俺の腹違いの弟だ」
「!」
「だから、あんたは俺の名前を知る必要がない」



覚えるな、口にするな。
尾形は言う。



「それに―――――」



今日の事も忘れるんだな。
知られていい事なんか何一つないだろう。



「そんな、私は」
「そもそも、こんな山の中で何をしてたんだ」
「気分、転換を」
「何?」



こちらを見ずに話しかける尾形を見上げながら、
得も言われぬ感情に気づく。


心の奥底から沸き上がるような、それでいて胸に留まるような、
これまで一度として抱いた事のない感情だ。


先程から上空ではゴロゴロと雨雲が鳴り、
今、この瞬間に目と鼻の先に建つ木々を引き裂いた。
相当な衝撃に身が揺れる。


雨はもう暫く続いた。






山の中の話は多少私の実体験です
今思えば結構な経験だなと思います
田舎が過ぎる
ここにきてようやく尾形と接触


2018/01/18


NEO HIMEISM